天皇の系図

✡はじめに

「天皇家の系図」と言っても我が国には系図を詳細に記した書籍があり、多くの古代の天皇、皇族の記録はそこに詳しく述べられている。我々庶民が『記紀』を読んであれやこれや言うのは皇族でもないのに他家のことに難癖をつけていると捉えられかねない。我々が天皇家の系図を見るなどと言うのは歴史「日本史」の授業の時くらいで、そこでパラパラと読むのが落ちである。つらつらと初代神武天皇から今上天皇の系図を眺めていると中古以降はともかく上古は王朝交替説などもあってすっきりと「万世一系」と行くのかどうかはなはだ疑問ではある。また、『記紀』には皇族の子孫として各地の有力豪族の家系をも略記しているが、これも真偽定かならずでいい加減な各豪族の言い分を聞いたものか。特に、『古事記』の武内宿禰とその子孫と称する諸氏族の記載は顕著なもので、臣下である武内宿禰の系譜をこういうところ(『古事記』)に書くのはおかしい、と言う見解もある。これなんかは、祖先伝承を持たない蘇我氏が周りの同様の人を集め作文したものであろう。現代の歴史学者も「葛城・平群(へぐり)・巨勢(こせ)・蘇我・紀などの古代の豪族は彼の子孫というが、いずれも史実としては信じがたい。」と述べている。
早くから文字を持たない国の歴史なんてこんなものかと思うが、特に『記紀』に見られる欠史八代の天皇はケチョン、ケチョンの話が多い。祖先伝承を持たないのは何も蘇我氏や武内宿禰の子孫という27あるいは28の氏族ばかりではなく、失礼ながら天皇氏もはっきりしたものは持ち合わせていなかったのではないか。総じて祖先伝承を持っている氏族はカバネが「連(むらじ)」の氏族が多いようで、「臣(おみ)」氏族は少ないようである。具体的には、連の代表氏族である大伴氏とか物部氏は「天地開闢神話(『古事記』、大伴氏)とか「神武天皇よりも前にヤマト入りをした饒速日命が祖先と伝わる(『日本書紀』、物部氏)とかハッキリとした伝承がある。要するに天皇氏は大伴氏や物部氏より少しばかり後発の豪族だったのではないか。そこで、天皇家が作成した祖先神話は各豪族の祖神や初代の人物を天皇家の系図に取り入れる。しかも、その時期は神話の時代や欠史八代の時代が多い。各豪族は天皇氏より派生した天皇氏の一族である。その後は、天皇は皇族を皇后にすることが多く、葛城とか、蘇我とか、藤原とか以外は通婚関係を持つことはなかった。この葛城とか、蘇我とか、藤原とかも神武東征にまつわる葛城はともかく、蘇我、藤原は祖先伝承を作文したのではないか。そこで、『記紀』にある神話や各豪族を検討してみる。

✡日本神話の神々および欠史八代の豪族

*伊弉諾尊、伊弉冉尊
「いざなぎ、いざなみ」の「いざ」は砂地、砂浜を意味するか。「なぎ」「なみ」は凪、波で波のあるなしを言うか。普通名詞と思われる。神話の発祥地は海ことに砂浜のあるところではなかったか。候補地としては宮崎県と福岡県があるそうで、福岡県は筑紫(筑紫国=福岡県)の日向(福岡市西区 日向峠付近)の橘小戸(福岡市西区小戸)の海岸、宮崎県は宮崎県宮崎市阿波岐原町産母・江田神社と言うが、小生にしてみるとどちらも海岸で「海水洗眼は、通常は考えらない」として、福岡市西区小戸は不可とする見解もある。日本神話の舞台の多くが淡路島や出雲国、九州北部と見るなら福岡市説も案外捨てきれない。但し、宮崎市説も付近に弥生時代から古墳時代の遺跡があるという。

*天照大神、素戔男尊、月読尊(三貴子)
 「月読尊」は普通名詞で現今のカレンダーのことであろう。天照大神、素戔男尊は高天原神話と出雲神話を合体しようとしたのであろうが、失敗したのではないか。おそらく『日本書紀』の編纂者会議で取り決めたことは、1.祖先伝承を持たない天皇氏の神話や神代の系図、人皇の事績などについては大伴氏の家伝等を参照文献とする。天皇氏と並び「天孫降臨」「国見」の伝承を持つ物部氏の神話は大伴伝承の後付けの理論とみたのか不採用。『先代旧事本紀』は「江戸時代以後、偽書と判明。」という説もある。2.大伴伝承とともに大きな影響を与えたと思われる丹波(山陰の文化)の伝承は日光感性神話等日本人の生理にはあわないものがある。北アジアの遊牧騎馬民族に特有の神話で、蒙古・鮮卑・契丹・高句麗などの始祖伝承や神話に見られる、と言う。日本人は騎馬民族ではないので不採用。おそらくこの神話の神の名は火明とか、火雷とか、穂日(火日か)とか、日や光にまつわる神名が多いのではないか。
天照大神の神名の起源はやはり天火明命の天照国照彦火明命により、それを大伴氏の祖神高皇産霊神、神皇産霊神の夫婦神の女神の部分に当てたか。全国の天照御魂神社は天火明命を祀るところが多い、と言い、「天照」は、本来、丹波神話(日光感性神話等)の最高神と思われ、これまたお粗末な話で慌てていたのか偽装工作がなっていない。
高天原神話は舞台も大阪湾岸、ことに、淡路島と思われ、出現する神は造化三神の天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)であり、天御中主神は独神(ひとりがみ)と言い、丹波神話(日光感性神話)の影響を受けた神か。高皇産霊尊と神皇産霊神は夫婦(めおと)神で高天原神話の主流をなす神と思われる。また、高天原神話は出雲神話との接近を色濃く伝えており、これらが広い意味での日本神話となっているのではないか。但し、出雲神話は『記紀』に登載されている出雲神話であって、『出雲国風土記』の出雲神話はおそらく元は日光感性神話系の神話で、八束水臣津野命は『記紀』には出てこない。それに、天照大神の原像は日光感性神話の「太陽の光が処女に入って妊娠するというもの」で、天照大神は伊弉諾、伊弉冉の子あるいは伊弉諾の子と言うが後者は日光感性神話の影響のもと作出されたのではないか。
「天孫降臨神話」はやや怪しい話で、後世の大和の熊襲・隼人の懐柔策か、あるいは、藤原不比等が五伴緒神の子孫と称する氏族を集め自己宣伝に使ったか。この種の話は蘇我氏もそうだが、二十七氏とか二十八氏を集め武内宿禰の子孫と称している。祖先伝承を持たない氏族の行く末か。やはりこの高天原神話は舞台が淡路島だったり、大伴氏が祖神を高皇産霊尊と主張しているところから鑑み、大伴神話ではないか。

*大国主命、少彦名命
 両神は対になる神名と思われ、大国は大きな国と同時に多くの国の意味であり、少彦名は少は空く(すく)と同源で土地の少ないことを言うか。名は土地または国の意味かと思う。少彦は小柄の男性を言ったものであろう。因みに、少彦名命は「日本書紀」では高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子、「古事記」では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子と言う。

*葦原中国平定

葦原中国の平定とは大和勢力による出雲勢力の平定のことであるが、実際には大和から兵員が出向いたわけではなく、丹波、因幡、伯耆などの所謂日光感性神話の信奉者が出撃したものだろう。関係する人物としては、
1.天菩比神(天穂日)が一番手として大國主神との交渉使となったが三年経っても復命しなかった。
2.次いで天若日子(天稚彦)が派遣されたが、大國主神の娘下照比売(シタテルヒメ)と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。
3.その後は各史料によって建御雷神、経津主神、鳥之石楠船神、稲背脛、天夷鳥命のいずれかから二柱が伴って派遣される。建御雷神(「火雷神」同様日光感性神話系神か)が主神で他は副神であると言う。
以上をまとめてみると、天穂日の穂日は火日のことかと思う。天稚彦は妻が下照日売と言い、照が日光感性神話と関係するのではないか。なお、倭文神社(伯耆国一宮)周辺には下照姫にまつわる伝承が多いと言う。出雲国の隣国である伯耆国は日光感性神話の信奉者が多数だったと思われる。ただ、日光感性神話の信奉者(丹波等の勢力)が葦原中国平定の先鋒者とするなら、大和の丹波征服は四道将軍派遣(崇神朝)の時であり、時代が合わない。四道将軍の派遣は『日本書紀』によると、「以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道主命遣丹波。」とあるが、ここからおかしい。おそらく、大彦命は東海に派遣され、武渟川別は北陸に派遣されたのではないか。大彦命は埼玉県の稲荷⼭古墳から発掘された金錯銘鉄剣に見える乎獲居⾂(ヲワケの臣)の上祖・意冨比垝(オホビコ、オホヒコ)と同⼀人である可能性が高いとする見解が有力である。しかし、私見で恐縮であるが、大彦命は後世の毛野国、武蔵国一帯の在地の豪族であり、武渟川別(建沼河別命)は沼河比売で著名な北陸の在地豪族であり、吉備津彦は吉備国の、丹波道主命は丹波国のそれぞれ在地の豪族ではなかったか。とにもかくにも、この四道将軍派遣の説話は眉唾な話だ。一説によれば当時は四道なる概念はなく、後世の山陽道と東海道のみだったという。
事代主神、建御名方神の二神は大國主神の御子神で、語義的には事代は一旦緩急あれば出雲国の代用地となるところの意か。具体的には宗像市界隈か。建御名方は諏訪湖のことか。具体的には諏訪盆地か。いずれも出雲が大和に負けた場合の撤退地のことか。

*天孫降臨

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)賑々しいの意味でにぎやかなさまを言うとある。本来はホノニニギノミコトで「ホ」は稲穂、「ニニギ」は賑やかなことで、稲穂が豊かに実ることの意という。
五伴緒神。
・天児屋命(あまのこやねのみこと)語義は、「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」、または「言綾根(ことあやね)」の意味で、名義は「天上界の小屋根(託宣の神の居所)」、または「祝詞を美しく奏上すること」と考えられる、と言う。
・太玉命(ふとだまのみこと)語義は、玉を用いて祭りを行う司祭者の意と言う。
・天鈿女命(あまのうずめのみこと)語義は、神名の「ウズメ」の解釈には諸説あり、「強女(オズメ)」の意とする『古語拾遺』説、『日本書紀』の表記通り「髪飾りをした女(鈿はかんざしの意)」とする説などがある。
・石凝姥命(いしこりどめのみこと)語義は、石(イシ)の鋳型を用いて鏡を鋳造することに精通した(コリ)特別の女性(トメまたはトベ)の意味である。
・玉祖命(たまのおやのみこと)。語義は、玉造部(たまつくりべ)の祖神。
以上より、五伴緒神の神名は自らの職掌を神名にしたもので没個性的な名前だ。また、瓊瓊杵尊の語義が「稲穂が豊かに実ること」の意と言うなら、瓊瓊杵尊と五伴緒神の神名の乖離は大きいものがある。やや持って藤原不比等の焦りが出ていると言うべきか。
天の岩戸の神話との関係も不明。ただ単に一つの神話を使い回していると言うことか。

*欠史八代の豪族

欠史八代の豪族と言っても神武天皇からして「日子八井命者、(茨田連、手島連之祖。)、神八井耳命者、(意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥石城国造、常道仲国造、長狭国造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、島田臣等之祖也。)とか、安寧天皇「師木津日子命(安寧の子)之子、二王坐。一子孫者、(伊賀須知之稲置、那婆理之稲置、三野之稲置之祖。一子、和知都美命、坐淡道之御井宮。)」とか、懿徳天皇「当芸志比古命(懿徳の子)者、(血沼之別、多遅麻之竹別、葦井之稲置之祖。)」<以上は『古事記』による>などと言っているが、これじゃあ日本の古代豪族の始祖はみんな天皇一族となるのではないか。それも細大漏らさずと言う感じで、一般的には信じがたい話だ。『記紀』に伝わる欠史八代の各天皇の記事がほとんど『帝紀』的な系譜情報のみからなり、各皇子の子孫だけが詳細に記されるのは異質なものではないか。多数説は「『古事記』や『⽇本書紀』にその系譜が記されている初期の天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる。」と。従って、「欠史八代の豪族」を論じるなどと言うのは嘘に嘘を重ねた話になってしまい実のある話とは言いがたい。

✡まとめ

「天皇家の系図」といえども正確無比のものとは言えないことは言うまでもないことだが、やはり「欠史八代」などという天皇は記録として保存していて良かったのかどうか。言うなれば、欠史八代というのは神武天皇が大和盆地を統一した話で神武東征をまやかしとするならば後に残るのはほとんど何もなく、神武天皇の皇后が事代主神の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命(紀)、比売多多良伊須気余理比売(記)などと言っているのは二代目以降の天皇の皇后が主に大和盆地の県主の娘なのとは急にこんなギャップが生じるものかと奇異に感じる。あるいは葦原中国平定と大和盆地平定とを混同したか。また、神武天皇(実際は、神八井耳命)の子孫と称する豪族がやたらと多く、これってどういう基準で採用したのか。ほとんどが各豪族の自己申告によるものか。揚げ足を取ればきりがないが、私見では神武天皇から開化天皇までの九人の天皇は血縁関係があった天皇もいればなかった天皇もいて各々の中小領主(九人の天皇)の事績が残っていたとは思うが、「イリ王朝」とか「ワケ王朝」とかの言わば全国的な統一王朝が出てきたとき欠史八代の天皇はかき消されてしまったと言うことか。しかし、欠史八代の天皇でも皇后を外部から招聘した天皇もおり、第五代孝昭天皇、第八代孝元天皇、第九代開化天皇である。時代が下るに従って近隣諸国への進出が激しくなっていった。しかも、第八代孝元、第九代開化は穂積、物部などの淀川系豪族を頼ったから大伴や葛城、内、賀茂などの高皇産霊系の豪族に粉砕されてしまった。言うなれば、日本の天皇はその時々のキングメーカーに大きく左右された。まともなのは大伴氏くらいで他の氏族は一族の女子を皇后に仕立て権勢を誇示していた。当然のことながら、失礼とは思うが天皇の首のすげ替えも姻族の長が行っていたのであろう。それができなくなったときはその氏族の衰退の始まりである。万世一系の天皇とは言えその内容は複雑である。

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