和泉黄金塚古墳の被葬者

✡はじめに

和泉黄金塚古墳は「和泉市文化財活性化推進実行委員会」によると以下のごとしである。

1.古墳時代前期(4世紀)に築かれた全長95mの前方後円墳。信太山(しのだやま)丘陵の先端部に築かれ、淡路島や六甲の山並みが一望できる。
2.第二次世界大戦後、戦時中の塹壕から副葬品が見つかったことがきっかけで、1950・51(昭和25・26)年に発掘調査された。巨大な木棺を粘土で覆った埋葬施設が3基並んで見つかり、中央に女性、左右に男性が葬られていた。
3.中央の埋葬施設から卑弥呼が魏に使いを送った景初(けいしょ)三年の記年を持つ銅鏡が出土し、一躍、全国的に注目された。
4.周辺には棚田が残され、古墳の姿とあいまって、美しい歴史的景観が形成されている。

以上が和泉黄金塚古墳の主要点であるが、Wikiにより細部を取り上げてみると、二段築成と推定される墳丘をもつ前方後円墳で、全長約94m、後円部径約57m・高さ約9m、前方部幅推定約42m、高さ約6.5m。古墳時代前期末(4世紀後半頃)の築造と考えられ、後円部の埋葬施設は主軸に平行して3基の粘土槨(中央槨・東槨・西槨)がある。木製棺の長さは順に8.7m・4m・4.37m。中央槨の棺内からは半三角縁二神二獣鏡、勾玉、棗玉、管玉、石釧、車輪石などが、中央槨の棺外から出土した画文帯四神四獣鏡には、景初三年(239年)の銘があり、魏志倭人伝における邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡百枚を贈られたとの記述との関連性が考古学者の一部で指摘されている。古墳の周囲には棚田の景観が残っていることも特筆される。また、墳丘には、葺石(ふきいし)と埴輪(はにわ)がめぐらされ、家形・靱(ゆき)形・衣笠形・甲冑形といった形象埴輪がくびれ部付近から集中的に出土している。

この古墳の最大のポイントは「景初三年(239年)の銘がある銅鏡」と言うことになるのかも知れない。しかし、類似の古墳としては「得能山古墳(とくのうざんこふん)」(神戸市須磨区板宿町3)と言うのがあり、破壊されて全容はわからないもののおおむねの概要としては以下のごとくである。
遺構概要 古墳(前方後円墳)。<立地>山稜突端。標高50m、南側の水田面からの比高約35m、葺石なし、(内部主体)位置:後円部か、割竹形木棺、竪穴式石槨長3m以上(南半損壊)・高1.2m・幅0.91m(主軸南北)、遺体:頭蓋骨(下層に朱層)・女性・50歳前後、頭位北。
遺物概要 埴輪なし、画文帯神獣鏡1+内行花文鏡1+鉄刀1。 歴博報56、八弧内行花文鏡(<文字>「長〓子孫」</文字> <文字>「寿如金石」</文字> <文字>「佳且好兮」</文字>、欠損15.4cm、1923年出土、現物行方不明)、画文帯同向式神獣鏡(<文字>「・・・大吉〓子君・・・」</文字>、完形14.6cm、1923年出土、東博蔵)、伴出、鉄刀+鉄剣+鉄鏃。一応、紀年銘はないものの作者の銘文はあるようだ。
築造年代 古墳時代前期(4世紀) 、出土鏡は中国製・2~3世紀。

✡和泉黄金塚古墳と得能山古墳は関連性があるのか

この二つの古墳は主被葬者が女性と共通しているばかりでなく、築造年代も4世紀(築造前後は得能山古墳が先で和泉黄金塚古墳が後か。)、墳墓の位置も丘陵の突端で、瀬戸内海を一望、埋納している銅鏡も三角縁神獣鏡ではなく(但し、和泉黄金塚古墳には半三角縁二神二獣鏡なるものがある)画文帯神獣鏡と何やら一世を風靡した古墳の様式を思わせる形式だ。当時、女性が単独で墳墓の被葬者となる場合はどのようなケースがあるのかを考えると、1.天皇の場合(例として、斉明天皇・牽牛子塚(けんごしづか)古墳)、2.皇族の場合(例として、倭迹迹日百襲姫命・箸墓古墳)、3.地方の女性首長(例として、向野田古墳(むこうのだこふん) 熊本県宇土市、古墳時代前期(4世紀末)・30代後半~40代の女性)が考えられ、また、特に現在の京丹後市では、時折、強力な女性首長が現れ、支配する時期があった地域ではなかったかと思われる。(例として、大谷古墳(おおたにこふん) 京都府京丹後市大宮町谷内小字大谷)。
 しかし、私見で恐縮ではあるが、和泉黄金塚古墳や得能山古墳の被葬者は上述の支配者そのものではなく、支配者の配偶者や一族などではなかったかと思われる。当時の畿内は、先進地域の中国や朝鮮半島には及ばないものの、儒教思想、道教などには凝り固まらず、日本的神道を持って倫理規範とし、近現代の欧化思想と似るところがあったのではないか。例えば、群集墓はその典型で「狭い区域に集中し密集度の高い古墳群のこと、また、小規模な古墳(円墳、稀に方墳)が群集している状態をいう。」と言うのはその代表ではないのか。和泉黄金塚古墳や得能山古墳はその前段階に位置づけられると思う。
ところで、和泉黄金塚古墳と得能山古墳の関連性と言われれば、いずれも大阪湾に面しており、現在の泉大津港や須磨港と直線で行き来ができたのではないか。また、被葬者が双方女性と言うことで、今はやりの「ミトコンドリアDNA型鑑定」で何かわからないものか。但し、和泉黄金塚古墳中央槨の被葬者を女性とするのは「和泉市」だけで、被葬者に言及しているのは「埋葬施設の東棺からは、頭骨と歯が出土しており、壮年期の男性のものであるそうだ。埋葬順序としては、中央槨、次に東槨、西槨の順と考えられている。」とある。即ち、確定しているのは東槨の壮年期の男性のみである。中央槨、西槨は推定の域を出ない。また、双方の古墳は立地が山稜突端となっているのも、そういうところに古墳を築造するのを基本事項としていた築造集団だったか。

✡西暦四世紀の時代背景

西暦四世紀からは一般に古墳時代と言われているが、「西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を
把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれている。」と言うことで、「特に、3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が全国で造り続けられた」と通説は宣っており、和泉黄金塚古墳や得能山古墳はそのさわり(話などの最初の部分のこと・誤用)ではないかと思われる。
とは言え、「空白の四世紀」に日本は何も海外活動をしていなかったのかと言われれば、わずかながら内外の国に金石文もある。まず、石上神宮の七支刀(しちしとう)の銘であるが、
(表)泰和四年五月十一日丙午正陽造百練銕七支刀生辟百兵宜供供侯王::::作(大意:「百錬の鉄で七支刀を造る。これによって世は兵事の不祥を避け、もろもろの侯王に幸いする」)
(裏)先世以未有此刀百滋:世:奇生聖音故為倭王造伝不:世(大意:「先世以来、まだこの刀あらず。百済王の世子、奇しくも生まれながらにして聖徳あり。それ故百済は倭王のために造った。後世まで示し伝えなさい」)
泰和四年は中国東晋の太和四年(369年)が日本では通説だ。
倭国と百済の高句麗の南下策への同盟の証として七支刀が作られ、倭国へ贈られた。『日本書紀』にも「神功皇后五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、」とある。

次いで、有名な高句麗の「好太王碑文」で、それによると日本関連の記事は、

391年 「百残新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來、渡海破百残□□新羅、以爲臣民」
399年 「永楽九年己亥条「百殘違誓、与倭和通。王巡下平穰。而新羅遣使、白王云、倭人滿其國境、」
400年 「永楽十年庚子教遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官軍方至倭賊退」
404年 「永楽十四年甲辰而倭不軌侵入帶方界和通残兵□石城□連船□□□王躬率往討從平穰」

などがあり、倭(日本)軍は391年の半島進出以来内陸へ積極的に攻め入っているが、あまり成果は上がっていなかったようだ。また、倭国は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)と言う説もある。好太王が渡海したという記録がないためだろうか。しかし、倭は渡海して百済や新羅に攻め入っているので、これはどう見ても現在の日本と言うことになるのではないか。
西暦四世紀と言えば、日本では『記紀』の景行天皇による倭国統一がメインテーマで、大伴とか物部とか武内とかが活躍した時期ではないのか。
以上を総括すると「空白の四世紀」の倭国(日本)の大王(おおきみ)は台与女王と景行天皇と考えられ、台与女王は甥の大伴武日命に譲位すべく政権に居座り続け、理由不明のまま景行天皇に禅譲したと言うことか。

✡まとめ

和泉黄金塚古墳は一般的には4世紀後半に築造されたと見られるが、どこかで5世紀と言う説を唱えているところがあったような。一応、後の百舌鳥古墳群にも近く、かつ、埋納されている銅鏡なども一般豪族では入手困難と思われるものなので、被葬者は古墳造営に関するトップクラスの人ではないか。また、古墳の大きさも天皇級とまでは行かないもののそれなりの大きさを誇るものだ。ところで、古墳造営のトップの人と言えば土師氏が『記紀』に登載されており、特に、垂仁天皇の段に「土師氏は野見宿祢を祖先とする氏族」とされて野見宿禰の説話が掲載されている。
『日本書紀』七年秋七月己巳朔乙亥、

詔群卿曰「朕聞、當摩蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。」一臣進言「臣聞、出雲國有勇士、曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。」卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰、自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立、各舉足相蹶、則蹶折當摩蹶速之脇骨、亦蹈折其腰而殺之。故、奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。是以、其邑有腰折田之緣也。野見宿禰乃留仕焉。
(大意:垂仁天皇が、「当麻蹶速は天下無双の力士と聞く。彼に比肩する人はいないか。」と言うことで、臣下が出雲国の野見宿禰を推薦し、相撲を取ったが野見宿禰が圧勝し当麻蹶速は亡くなってしまった。当麻蹶速の領地を野見宿禰に与え、宿禰はそこに定住し仕事をした。)

『日本書紀』卅二年秋七月甲戌朔己卯、
皇后日葉酢媛命一云、日葉酢根命也薨。臨葬有日焉、天皇詔群卿曰「從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。」於是、野見宿禰進曰「夫君王陵墓、埋立生人、是不良也、豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。」則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰「自今以後、以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。」天皇、於是大喜之、詔野見宿禰曰「汝之便議、寔洽朕心。」則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪、亦名立物也。仍下令曰「自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。」天皇、厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地、卽任土部職、因改本姓謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之緣也、所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。
(大意:垂仁天皇の皇后日葉酢媛命が亡くなり、天皇は殉死について臣下に訪ねたところ、野見宿禰が進んで「君王陵墓に生きている人を埋め立てるのは良くない。」と言い、出雲国より土師部百人等を連れてきて殉死者等に代わる土物を造って皇后陵に並べた。これを埴輪もしくは立物という。野見宿禰は土部職に任ぜられ、これにより本姓を改め土部臣と言う。これ土部連等、主に天皇喪葬の緣なり)

しかし、陵墓造営の基幹となる部分は土木工事と石材工事であり、無論、上記二つの説話でも上段は石材に関すること、後段は土木工事に関することを述べたのであるかも知れないが、実際の陵墓造営の話を矮小化したような話になっている。
垂仁天皇は「実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろの大王と推定されるが、定かではない。」(Wiki)とあるが、もしそうだとしたら、卑弥呼女王や台与女王と同世代の人となる。『魏志倭人伝』 に言う「官有伊支馬(活目)、次曰彌馬升(観松彦か)、次曰彌馬獲支(御間城か)、次曰奴佳鞮(仲彦か)。」とある序列一位の伊支馬は活目の音を写したものか。とは言え、「伊支馬」は官人(現今の官僚か)であって大王や王族ではないようだ。勝手な私見では、これらの人は吉備国の高官で大伴氏に懐柔されて邪馬台国(大和国)へやって来たのではないか。
古墳時代の突入であるがきっかけは卑弥呼女王の墓という「箸墓古墳」の造営にあったかも知れないが、古墳造営を国営事業に格上げし、有償化して国家財政の再建に役立てようとしたのはやはり「ワケ王朝」ではなかったか。特に、朝鮮半島からの帰還者がバタバタ倒れるのを見て、言葉は悪いが「これは事業になる」と発案したのは武内宿禰で、応神天皇以下の賛同を得て本格的に新型の前方後円墳の普及を図ったのではないか。武内宿禰は優秀なテクノクラートであったらしく、『新撰姓氏録』には古墳造営関係者の氏族名が残っている。これを最初に組織したのは武内宿禰ではなかったか。
実際の武内宿禰は「倭・高句麗戦争」に現今の師団長などとして参加し、戦友には武内宿禰の27氏族などがいたのではないか。息子もいたが帰国後に病死した。和泉黄金塚古墳は百舌鳥古墳群との近さから見て仁徳天皇が墓地新設造営を武内宿禰に命じ、完成の暁には現在の和泉黄金塚古墳があるところに武内宿禰の墳丘長200mくらいの天皇級古墳の造営を構想していたのではないか。ところが、武内宿禰が半島から帰還したところ、現今の新型コロナよろしく意味不明の感染症が発生し、まず体力のない武内宿禰の妻が亡くなり、次いで身体強健なはずだった長男が亡くなり、ほどなく次男も亡くなったのではないか。武内宿禰にしてみると希望の明かりが全部消えてしまい、ショックこの上なしかと思われる。失礼ながら現在武内とか竹内とか名乗る人はその先祖を武内宿禰という人が多いと言うが、実際の武内氏は和泉黄金塚古墳の二人の息子が亡くなったことにより断絶してしまったのではないか。その後武内宿禰は仁徳天皇に願い出て、宿禰の墓地予定地に家族の墓を建てることにした。木棺についても、「粘土槨(中央槨・東槨・西槨)がある。木製棺の長さは順に8.7m・4m・4.37m。」とあり、中央槨ばかりが優遇されている。これは中央槨の女性が景行天皇の皇女とか古参同僚の大伴氏の子女だからではないか。古墳の位置が「淡路島や六甲の山並みが一望できる。」と言うのも大伴氏との関係をうかがわせる。おそらく、和泉市は古代の国府などがあったところと言い、武内宿禰も百舌鳥古墳群造営当初は現在の和泉市に住んでいたのではないか。丘陵部の先端に古墳が築かれたのも得能山古墳と同じである。古墳の築造や鏡の種類の品定めなどは仁徳天皇が決定したのではないか。埋納品の現物を提供したのは大伴氏と思われる。銅鏡の埋納品には仿製品はなく全て中国製である。大伴氏が入手した中国鏡のほとんどは皇帝から賜った物ではなく市販されていた物と思われる。
『記紀』の武内宿禰は蘇我馬子によるいい加減な創作であるが、実際の武内宿禰は景行天皇、大伴氏、あるいは物部氏と並ぶ有力テクノクラートの一翼を担っていた。後世の応神天皇につながる「ワケ王朝」の創業者群の一員ではなかったか。また、大伴氏とは親族関係にあったようで、二人の息子ともどもこれからと言うときに残念無念な思いであったろう。
結論を言うと、和泉黄金塚古墳の被葬者は武内宿禰の妻(大伴氏の子女)と二人の息子と言うことになり、武内宿禰の直系の子孫はなくなった。武内宿禰の後(のち)は武内宿禰の出身地(因幡国)の親戚筋という伊福部氏が継承し、元々の国造の因幡氏を差し置いて伊福部氏が因幡国国造となり、権勢を振るったようだ。また、伊福部氏は畿内では古墳造営の石材工事の棟梁だったと思われる。

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