新方遺跡のこと

✡はじめに

京都大学名誉教授片山一道博士の著書で「弥生人顔などない」とか「縄文人は来なかった」など述べられていた本があったように記憶しており、内容を確認しようとその書籍を探してみたがどこかへ吹っ飛んでしまったのか全く見当たらなかった。ご見解の主意は、人類はY-DNA/A、B、C、Dの順に分岐して、A、Bはアフリカに残り、C、Dは脱アフリカを果たし、ユーラシア大陸を東へ、東へど進み、大陸の終着点と言うべき現在の日本列島へ到達し、その先は海で行くところがないので現在の日本列島あたりに定住した。我が意を得たりと思った見解で、そもそも、過般、東京大学教授海部陽介博士が「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」で、台湾から沖縄に渡るのを何回も失敗しているところを見ると、科学技術が進んだ現代の船と3万年前の船には技術格差があることは明々白々であり、これなんかも「日本人南方渡来説は間違い」と結論づけるべき格好の実験結果だったと思う。また、港川人についても、漂着説と航海説があるが、港川人骨が発見されたところでは人々の生活痕がなく、「南シナ海のスンダランド沿岸から、多数の人が竹の家船ないし漁労用竹筏とともに津波に襲われるなどして一斉に沖に流され、黒潮に乗って漂流してきた結果だと考える。」(第五部  第2章. 国立科学博物館・海部陽介チーム「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」は3万年前の航海を再現できたのか、の<結論>の末尾)と言うのが標準的な考えか、と思われる。それに、人類学者の中には日本は朝鮮半島とは人種的な結びつきがあるが、台湾とは何もない、と言う人もいる。八重山と台湾は指呼の間で、やはり台湾から沖縄へ人がやって来たのは有史時代に入ってからではないか。

我が家には片山博士の書籍がもう一冊発見され『古人骨は生きている』(角川選書344)と言うもので、裏表紙を見ていると「軽妙洒脱なスケルトン・エッセイ」と銘をうった随筆集であるようだ。日本では「死」などというと何か敬遠されがちな話題だが、外国では『死の序列』などというおどろおどろしい書名の本もありそれなりの売り上げになっているようだ。日本にも翻訳本が発刊されているらしい。売れているかどうかは不明。
ところで、『古人骨は生きている』(角川選書344)には、「死者の埋葬 神戸新方遺跡の埋葬者たち」と言う一項があり、学術研究とは厳密には関係はないが、片山博士は「神戸まで通うのは時間的にも、けっこうな負担となる」と述べておられる。京都大学の大先生が神戸へ出張するのに新幹線にも乗らないのかなと思いつつ、「(新方遺跡は)昭和45年に山陽新幹線建設に伴う調査で発見されました。」と言うので、まだ山陽新幹線は開業していなかったか。(山陽新幹線は1972年(昭和47年)3月15日に新大阪駅 - 岡山駅間が部分開業
したようである)兎にも角にも、遺跡というものは辺鄙なところで発見されるらしく、関係者の時間の浪費は大変なものであったようだ。しかも、予算の関係か何回にも分けられて行われ、継続的に調査されるのならまだしも、土地等の所有者の事業目的もあり、調査半ばで打ち切られたりするようだ。

✡新方遺跡概略

新方遺跡の概略を記したものとして以下のものがある。
<特に新方遺跡を特徴付けるものとして、古墳時代の玉造工房集落、大形の堀立柱建物群、弥生時代の大規模な方形周溝墓や近畿地方最古の弥生時代前期の人骨の検出などがあげられます。>(『新方 その二 現地説明会資料。平成十一年十一月十四日神戸市教育委員会』この資料の続きには、発掘された遺骨の8号人骨から13号人骨までの詳細が載っている。但し、腐食して形態の読み取れないものは除く。一応、ここでは、

1.古墳時代の玉造工房集落
2.大形の堀立柱建物群
3.弥生時代の大規模な方形周溝墓
4.近畿地方最古の弥生時代前期の人骨の検出

が、取り上げられており、特に、「4.近畿地方最古の弥生時代前期の人骨の検出」および縄文時代の庶民の遺骨などが思いのほか出土し、片山博士以下の諸先生がうんちくを傾けているので、我々素人は蚊帳の外という感じだ。そこで、以下では「1.古墳時代の玉造工房集落」、「2.大形の堀立柱建物群」、「3.弥生時代の大規模な方形周溝墓」をまとめて考えてみようと思う。言うなれば、これら三個の項目は、いずれも「墓」に関した項目であり、当該地が墳墓造営に関した地域ではなかったかと思われる。

✡玉造工房集落

「古墳時代の玉造工房集落」と言うことで、単純に古墳時代の古墳に副葬する「勾玉」や「管玉」、「臼玉」、「玉砥石」などを造っていたのではないか。但し、資料によっては「玉造工房跡?」などと書いてあるものもあり、玉造工房集落なんてあったのかと言う見解もあるようだ。
ところで、新方遺跡がある神戸市西区・垂水区あたりは旧播磨国に属し、7世紀以前は針間国(加古川以西)・明石国(明石郡・美嚢郡・加古郡・印南郡)・針間鴨国(賀茂郡・多可郡)があり、大化の改新以降に播磨国(針間国)へ編入されたと推定されている。一説と思われ真偽のほどは不明だが、中心地はそれぞれ、針間国(たつの市)、明石国(明石市)、針間鴨国(西脇市)ではなかったか。そこでそれぞれの地域の草創期の古墳を見てみると、

針間国(たつの市)

吉島古墳(よしまこふん)
新宮町吉島の丘陵尾根に所在する前方後円墳で、墳丘の全長は約30mである。
明治時代に竪穴(たてあな)式石室が発見され、三角縁神獣鏡など6面の鏡、ガラス玉、鉄刀片、土器などが知られている。鏡はすべて中国製と考えられ、時期は3世紀半ば、日本最古級の古墳として著名である。

養久山1号墳(やくやまいちごうふん)
揖保川町養久(やく)の丘陵尾根に造られた前方後円墳で、墳長は約30mである。
墳形は讃岐(さぬき)地方の古墳と共通し、2段に築成され、石が巡らされている。後円部には竪穴(たてあな)式石室1基と5基の箱式石棺(せっかん)があり、時期は3世紀後半と推定されている。
地方の古い前方後円墳の多様性を示す貴重な事例である、と言う。

輿塚古墳(こしづかこふん)
御津町黒崎(くろさき)の丘陵上にあり、前方部が失われているが、全長約100mと推定される。揖保川流域最大の前方後円墳である。
墳丘は3段に築成され、葺石(ふきいし)と埴輪(はにわ)を持ち、後円部には竪穴(たてあな)式石室が知られている。時期は4世紀半ばと推定される。
畿内の大型前方後円墳にならって、地方首長の権力を見せつけるものである、と言う。

明石国(明石市)

幣塚古墳(ぬさづかこふん)
瀬戸川と清水川の合流地点の北東、瀬戸川左岸の台地の西南端に位置します。直径34m、高さ4mの市内最大の円墳で、埋葬施設は板石(いたいし)を積上げた竪穴式石室になっています。平成4(1992)年の調査では、墳丘には5cm程度の円礫を葺き、裾部を取り囲むように埴輪列をめぐらしていた。埴輪は直径約40cm前後が多く、合計19個、約1.8mの間隔で規則正しく配列されていました。こうした埴輪の形状や焼成技術の特徴などから、幣塚が作られたのは、古墳時代中期初頭の四世紀後半から五世紀のはじめ頃と考えられています。

天王山古墳群(てんのうざんこふんぐん)
帆立貝形古墳1基・円墳3基・方墳3基の計7基から構成される。古墳群のうち4号墳は、長辺19メートル・短辺16メートルの方墳(方形墳丘墓)で、主体部の埋葬施設を割竹形木棺2基とする。副葬品の様相からは弥生時代終末期-古墳時代出現期(庄内期)の3世紀前半頃の築造と推定され、明石川流域では最古級の古墳として注目される。5号墳は、一辺約20メートルの方墳で、主体部の埋葬施設を組合式箱式石棺1基・割竹形木棺3基とする。調査時点で大きく破壊を受けていたが、西求女塚古墳(神戸市灘区都通)とほぼ同時期となる小型丸底壺の出土により、古墳時代初頭の3世紀中葉(または3世紀後半)頃の築造と推定される。その他の古墳は、古墳時代後期の6世紀代の群集墳になる。明石川流域は前方後円墳が少ない特異な地域で、古墳時代初頭には弥生時代の系譜を引く方墳に長大な割竹形木棺を直葬した「明石型方形墳」が築造される傾向にあった。

五色塚古墳(ごしきづかこふん)
五色塚古墳は(千壺古墳とも呼ばれ)、4世紀後半に築造された前方後円墳で、全長194メートル、前方部の幅82.4メートル、高さ13メートル、後円部の直径125.5メートル、高さ18.8メートルを測り、周囲に周濠を巡らしています。立地としては明石海峡とそこを行きかう船を見下ろすような場所にあり、海上交通の要衝を占めています。このことから海上交通と関わりの深い有力者の墓と考えられています。
この古墳は私見で恐縮ではあるが、地元の豪族の墓ではない。全長194メートルなどというのは天皇級の陵であり、『記紀』にも名の出てくる人物の墓かと思われる。おそらく応神天皇にまつわる人物の墓と思われ、応神天皇は多彩な人で人物を特定するのは難しいが、
周りの状況で判断すると、倭・高句麗戦争(わ・こうくりせんそう)は決着が付いておらず、いつ高句麗が攻めてくるか解らない、もし、倭国内での戦争になれば高句麗軍は船でやって来ると思われ海戦は避けられない。海人族を有力ポストに任命する。神戸市垂水区宮本町には海神社があり、祭神は綿津見三神という。これまた、阿曇氏の氏神で志賀海神社の祭神と同じである。志賀海神社は全国の綿津見神社、海神社の総本社を称している。などなど言うが、これまた、私見で恐縮だが、海神社も住吉大社と大海神社の関係と同じく、元々は二つの神社があり、阿曇氏の志賀海神社と神主家の海神社があって、祭神も少しずつ違っていたのではないか。大伴武日あるいは武以の発案で九州の有力海人族阿曇大浜が招聘され、吉備(吉備氏)に次いで明石に駐留することになったのではないか。それに、阿曇大浜はほかにも海人族の反乱を鎮定したなど功績があった。従って、五色塚古墳の被葬者は阿曇大浜の可能性が高い。もし、地元の豪族とすれば、明石国の隣国摂津国の大物領主である大伴氏となろうかと思われるが、応神天皇の同世代の人物は大伴武以と考えられる。明石市には住吉神社が数社あり、明石市魚住町中尾にある住吉神社が代表とされる。このあたりで大伴氏の系統が大きく変わったと思われ、なんとも言われないところだ。但し、残された伝承との整合性は、阿曇大浜には小浜という弟がおり、小壷古墳は小浜の墓か。海神社は綿津見三神を祭神とし、綿津見三神は阿曇氏の祖神である。築造時期の4世紀末-5世紀初頭は応神天皇の御代である。応神3年11月には各地の海人が反乱を起こしたため天皇は大浜を使わしこれを鎮定した。その功績により「海人之宰」に任じた。後年、海部を定めた等。以上を鑑みるに五色塚古墳の被葬者は阿曇大浜がふさわしい。

針間鴨国(西脇市)

経ヶ芝古墳(きょうがしばこふん)西脇市平野町字経ヶ芝
経ヶ芝古墳は平野町東側の丘陵尾根上にあった古墳です。現在は元の場所から約200㍍南にある、平野東公園内に復元されています。
墳丘は東西11・3㍍、南北10・4㍍で角が丸くなった四角形の古墳で、墳丘の斜面には裾から約1㍍程度の葺石があるものの、墳頂部に葺石はありません。
埋葬施設は板石を組み合わせた箱式石棺で、墳頂中央に東西に2基、平行に並びます。石棺の内側には、朱の痕跡が確認されています。
副葬品は出土しておらず正確な築造年代は不明ですが、近隣での類例から、4世紀(古墳時代前期)に築造された可能性が高いと考えられます。資料によっては「厚葬」とある。

道の上古墳(みちのうえこふん)西脇市羽安町
羽安町には、アカ山と呼ばれる標高147メートルの山があります。山頂に「道の上古墳」があります。
この古墳は、西脇・多可地域では大型の円墳で、直径が26.4メートル、高さが3.7メートルあり、昭和55年に兵庫県の文化財に指定されました。墳丘の斜面には古墳の形が崩れるのを防ぐため、石が敷き詰められています。墳頂は平坦で南北方向に石材があることから、竪穴式石室と推定されています。また、出土品がないため築かれた時代は不明ですが、立地や外部施設、埋葬施設から古墳時代前期から中期(4~5世紀)の築造と考えられています。

岡ノ山古墳(おかのやまこふん)西脇市上比延町
岡ノ山古墳は全長51.6m・後円部経35.5m・高さ7.7mで前方部幅12.9m・高さ3.7mを測り、 前方部は細長い柄鏡式で、後円部は2段築成されている。外部施設は石垣状の葺石が認められるが埴輪類は確認されていません。埋葬施設は墳丘主軸に平行した竪穴式石室と推定されています。 確実な築造年代は出土遺物が知られていないため不明ですが、前方部が柄鏡式であること・山頂に築かれていることから、古墳時代前期でも早い段階(4世紀前半)の築造である可能性が高いものと推定されています。西脇市・多可郡内唯一の前方後円墳で、古墳時代前期のもの。

以上を考察するに、

1.後世の播磨国は古墳築造草創期の3世紀から有り体に言うと摂津国の大伴氏と吉備国の吉備氏との草刈場であった。
2.盗掘を受けていない古墳にあっても副葬品がない古墳が多く、当時にあっては副葬品があるのは国政に参与した豪族のみである。
3.墳形も吉備氏系の円墳・前方後円墳、大伴氏系の方墳に分かれており、摂津寄りの明石国では方墳が多く、吉備寄りの針間国では円墳ないし前方後円墳が多かったのではないかと思われる。Wikipediaにも「明石川流域は前方後円墳が少ない特異な地域で、古墳時代初頭には弥生時代の系譜を引く方墳に長大な割竹形木棺を直葬した「明石型方形墳」が築造される傾向にあった。」とある。
4.方墳と円墳の混在地域ではあるが、徐々に円墳(前方後円墳も含む)が優勢になっていったようである。
5.本格的に古墳造営業が進展したのは「五色塚古墳」造営後で、兵庫県神社庁の「粒坐天照神社の由緒」によると、「人皇第32代崇峻天皇、第33代推古天皇の御代、今のたつの市に伊福部連駁田彦という長者あり。邸の裏に杜がありて、推古天皇2年(594)、輝くもの現われる。曰く、「我は天照国照彦火明命の使である。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土地と人々を守り給うて既に千年を越ゆ。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまして神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ。すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えてゆくであろう。」と。昇天して去り、あとに種稲が残されていた」と。伊福部連とか天火明命とか何をしていた人物かを特定することは難しいかも知れないが、伊福は「いはき、いほき、いふき」と変化したもので「いはき」は磐城即ち岩で、古墳の石材を加工していた氏族であり、天火明命は「天照国照」「火明」からわかるように太陽光や熱の神格化である、とか「『古事記伝』では「ホアカリ」は「穂⾚熟」で、稲穂が熟して赤らむ意味としており、天皇に繋る他の神と同様、稲に関係のある名前」と言うが、私見で恐縮かと思うが、この場合の「天照」は現今の「晴天」の意味であり、屋外での土木工事が順調に進むように晴天を願うことを言うのではないか。従って、天火明命とは土木建築業の元祖を言うものと思う。伊福部連駁田彦と言う長者が現れたのも当該地域で古墳造営に関する産業が繁栄し、神戸市教育委員会の「古墳時代の玉造工房集落」と言う判断に至ったのではないか。五色塚古墳の造営が西暦400年頃で伊福部連駁田彦の粒坐天照神社の創祀が推古天皇2年(594)とすると200年くらいの間隔があるが、この200年の間に播磨国の古墳造営業の進展や伊福部連氏の伸長があったのだろう。因みに、文化庁による『平成28年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)』によると、都道府県別古墳の数は、
1位)兵庫県:18851、2位)鳥取県:13486、3位)京都府:13016、4位)千葉県:12765、5位)岡山県:11810、6位)広島県:11311、7位)福岡県:10754、8位)奈良県:9700、9位)三重県:7025、10位)岐阜県:5140、11位)群馬県:3993、12位)静岡県:3829、13位)大阪府:3427となっており、1位)兵庫県:18851、2位)鳥取県:13486、3位)京都府:13016、5位)岡山県:11810、13位)大阪府:3427は播磨国(兵庫県)の隣接県ないし近隣県である。新方遺跡玉造工房の主なる取引先は後世の播磨国はもとより明石国にあったので大伴氏の勢力が強かった、摂津国、河内国、和泉国、紀伊国などに及んでいたのではないか。また、針間国の伊福部連は中山茶臼山古墳(吉備の中山、大吉備津彦命御陵と言う)以降の吉備国の古墳造営に関わり産をなしたのではないか。

✡大形の堀立柱建物群

掘立柱建物は時代によって用途はまちまちのようで、(Wikipediaによる)
 
縄文時代前期 三内丸山遺跡や大館市の池内遺跡では、拠点集落の中心的な建物。

縄文時代中期 岩手県紫波町西田遺跡では、広場を中心に、内側から土坑墓→掘立柱建物→竪穴住居→貯蔵穴の順に同心円状に遺構が配置される。そこでの掘立柱建物は殯(もがり)用の建物(再葬施設)ではないかとする考えがある。墓地が円環の中心を占めることから、墓に葬られた人々を祖先とする世界観のもとで日常生活が営まれた。

弥生時代 この時期の掘立柱建物には軍事的性格を帯びる建物や倉庫的使用のなされた建物(高床倉庫・高床住居など)が増加したものとみられる。著名なものとしては、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡出土の土器に描かれた多層式の楼閣がある。

古墳時代 豪族相互の序列ができあがってきて、戦争は激減し、集落における軍事的要素は薄まるが、一方で建物が豪族の威容を示すものとして積極的に利用された。群馬県高崎市の三ツ寺Ⅰ遺跡・北谷遺跡の調査例などが知られる。ここでは居住空間(私的空間)と祭祀の場もしくは首長による政治の場(公的空間)とがきちんと区画されていたことが確認されており、また、3km離れた両遺跡が規模・形状ともにまるで同じ設計図をもとに構築されたかのように酷似している。

おそらく、新方遺跡の「大形の堀立柱建物群」とは、軍事的性格を帯びる建物や倉庫的使用のなされた建物(高床倉庫・高床住居など)が考えられる。「軍事的性格を帯びる建物」とは兵員の宿舎や兵器の製造所、「倉庫的使用のなされた建物」とは当初は製造兵器の貯蔵所で古墳時代に入ってからは玉造用の原石とか、勾玉、管玉などの副葬品の在庫用倉庫としての利用が考えられる。

✡弥生時代の大規模な方形周溝墓

方形周溝墓は、「1964年の中央高速自動車道八王子インターチェンジの建設工事に先立つ発掘調査で,弥生時代終末期の特殊な4基の墓が発見された。しばらくして方形周溝墓と名づけられたが,以後この種の墓の発見が各地で相次いだ。」とあるように、戦後の概念で、各学者の説明で若干の違いがあるが、おおむね以下のごとしである。

1.発生:
弥生時代前期末に近畿地方で発生して伊勢湾岸へ及び、中期以降に急速に東方へ伝播するが、西方への波及は少ない。しかし古墳時代前期には、東北地方から南九州地方までの汎日本的分布を示す。
類似の墓制に方形台状墓があり、溝による区画よりも、地形整形で立体的に構築するものである。弥生時代前期に発生し、中期以降に中国地方を中心に盛行する。

2.構造:
幅1~2m,深さ 1m前後の溝を埋葬部分の周囲に方形にめぐらし、中央部にわずかな盛り土があるものもある。
大きさは1辺が 20mぐらいから5~6mぐらいのものまであるが,普通は 10m内外。
溝を掘削した排土その他を内側に積んで低い墳丘を築いたが,後世の削平により墳丘を残さないものが多い。
また溝が全周にめぐらされているもの,一部分を欠いているものなどその形状はさまざまである。
溝の中にはしばしば供献の土器がみられ,また囲郭内の埋葬施設から若干の副葬品(鏡・太刀・玉など)が発見されることもある。
中央部に土壙を掘って遺体を埋葬した。遺体も数体あったり,壺棺にいれたものもある。
一応、埋葬様式は木棺を中心に土器棺,土壙墓を伴う。
中央部や溝中に埋葬をする家族(小集団)墓の一形式。一般庶民の墓ではない。
数人から二十数人を葬った家族墓と、一人だけを葬ったものとがある。
溝を円形にめぐらした円形周溝墓も確認されている。

3.墓域:
墓域は、数基あるいはそれが数群で形成され、連結や規則的な配置を示すものが多い。

4.特記事項:
「東九州(宮崎県)では,弥生時代の終り近くに方形周溝墓が出現した。これは古墳時代に福岡・熊本県下に及んでいる。」

上の平遺跡(甲府市)では「弥生時代後期後半(今から1,800年前)から古墳時代前期初頭(今から1,700年前)にかけて造られた方形周溝墓群(ほうけいしゅうこうぼぐん)は、この地域に古墳が出現する直前の様相を伝える重要な発見となり、この遺跡を一躍有名なものにしました。そして、スポーツ広場の建設が計画されていた地区で発見された方形周溝墓群は、計画の見直しにより保存・復元されることになり、山梨県における遺跡保存の原点ともいえる遺跡となりました。」

いずれの地域も(宮崎県、山梨県)、弥生時代末期に方形周溝墓が導入され、何やら景行天皇の全国統一前線基地ではなかったかと思われる。特に、日向国も甲斐国も大伴氏の勢力下にあったと思われ景行天皇・大伴氏が近畿発祥の方形周溝墓なるものを直接持ち込んだ可能性もある。もっとも、方形周溝墓などはどこにでもあるものではないかと言われればそれまでだが、弥生時代後期から古墳時代前期には甲府市の上の平遺跡に瀟洒な方形周溝墓の墓地が造られており、宮崎県では弥生時代終末期前後に突如として質的量的に墓地が拡大するとし、区画墓もようやくこの時期に出現と言う。これって同じ時期ではないのか。但し、宮崎県の弥生時代終末期頃の特定個人墓には瀬戸内系の装飾長頸壺が供献される、と言う。「南部九州と瀬戸内間における交流が 「高坏, 壺がもつ祭祀などの観念的所為に供するに留まらず, 生活次元にまで下りた移動であった可能性を考えねばならないようになった」(下條信行愛媛大学名誉教授)と言う見解もある。『記紀』で考えられるとしたら、景行天皇・日本武尊の九州遠征(「景行12年8月15日 熊襲が貢物を送らなかったため筑紫に向かう。」から「景行19年9月20日 大和に帰還。」景行天皇の遠征『日本書紀』)や(「景行27年8月、熊襲が再び叛いて辺境を侵す。10月、今度は皇子の小碓尊(日本武尊)を遣わして、これを討伐させる。景行28年2月 日本武尊が熊襲討伐を報告。」日本武尊の遠征『日本書紀』)があるが、吉備に関するものは「吉備の穴濟(あなのわたり、広島県福山市芦田川河口)神及難波の柏濟(かしわのわたり、大阪市淀川河口付近)神、皆害をなす心がある、悪い息を放って、道行く人を苦しめていました。また禍害(マガ)の藪(もと)になっていました。それですべて悪しき神を殺し、ついで水陸(ミズクガ)道を開きました」とあり、逆に吉備の人をスカウトするどころか殺害している。しかし、実際には景行天皇(記録では日本武尊)はこの遠征で吉備国からも人材を登用し、大伴氏とは徐々に距離を取り始めたのではないか。

✡まとめ

1.古墳時代の玉造工房集落は、五色塚古墳の造営後その技術の継承として産業が発展したものと思われる。現代的に言うと需要家は播磨国のみならず、摂津国、丹波国、山城国、吉備国などがメインの取引先であったと思われる。

2.大形の堀立柱建物群は、商品を保管する倉庫と考えた方が良いのではないか。五色塚古墳があるとは言え、当該地にはそんな豪邸に住む豪族はいなかったのではないか。

3.弥生時代の大規模な方形周溝墓は、近畿発祥説と朝鮮半島発祥説があるが、近畿地方で弥生前期に木棺を方形の墳丘で埋め、周囲に溝を掘る方形周溝墓が出現した。近畿発祥説と朝鮮半島発祥説を併記する、

*「方形周溝墓は弥生時代より早い時期に朝鮮半島に大量に発見されている。墳丘墓は支石墓と同じく、中国には見られない墓制で、朝鮮半島南部から伝えられたものと考えられている。これは弥生人が中国長江地域ではなく朝鮮半島から移住したことを証明している。北部九州では方形周溝墓は少なく近畿地方に発見され始める。その理由は方形周溝墓を作る集団が北部九州に定住した後、短い時間に近畿地方に直ぐ移動したからだと考えられている。福岡県東小田峰遺跡で弥生時代前期初頭の例がある。この方形低墳丘墓は弥生後期に大形化し、前方後円墳に発展する。」(Wikipedia「弥生時代の墓制」)

*「出現したころの方形周溝墓は大阪府や兵庫県に多くて、朝鮮半島に近い九州地方ではほとんど造られない。しかも、方形周溝墓と全く同じ墓は朝鮮半島ではほとんど見つかっていない。なので、方形周溝墓は朝鮮半島から伝わったものではなく、日本列島の弥生人が独自に生み出したとする説」「東武庫遺跡(尼崎市武庫元町)は方形周溝墓が朝鮮半島とつながりがあるものとする1つの証拠になっていて、とっても重要なので、出土遺物は兵庫県指定文化財になっている。」「「擬朝鮮系無文土器」とよばれる朝鮮半島の土器をまねて日本列島で作られた土器や、「瀬戸内型甕」とよばれる瀬戸内地方で多くみられる土器が墓に供えられたと考えられる状態で出土しています。また、方形周溝墓(1号墓)に使用されていた木棺木材の伐採された年代が、紀元前 445 年であることが年輪年代測定法で判明したことでも非常に有名な遺跡です」(赤穂市立有年考古館平成27年度特別展パンフ)

私見では近畿発祥説が良いのではないかと考える。日本人の発想力はそんなに乏しいものではなく、同じものを朝鮮半島で考案しようが、近畿地方で独自に開発しようが何ら問題ではない。「東武庫遺跡(尼崎市武庫元町)は方形周溝墓が朝鮮半島とつながりがあるものとする1つの証拠になっていて、とっても重要なので、出土遺物は兵庫県指定文化財になっている。」と言うのも、失礼ながらやや疑問である。これなんかも近畿地方では弥生時代は縄文人と弥生人が混在していたのであろうが、弥生人即ち朝鮮人の優位を示すものではない。日本と朝鮮半島はやや似て非なるところがあり、支石墓や金海式甕棺墓(韓国慶尚南道金海でも発見されたので「金海式甕棺」と呼ばれることがある。日朝いずれが起源かは解らない)にしてもあまり日本では広がらず、九州北部とその周辺のみだ。即ち、朝鮮の墓制を日本へ導入したのは朝鮮半島出身者だけで、在来の日本人とはあまり関係がなかったのではないか。但し、縄文後期・晩期の遺跡からは、日本各地(東北~近畿~九州)で甕棺墓の風習があった、と言うのも、日本で発祥したものか。何と言っても、縄文時代は「土器」と「弓矢」の二大発明があったと言うくらいだ。

墓制の特徴と地域を調べたものがあるので、そこから抜粋してみると、

*鉄刀剣副葬と大型区画・大型墓壙造営を重視する 山陰・吉備南部・近畿北部・北陸地域。
*鉄刀剣副葬と武器形青銅器埋納の双方に力を注ぐ一方で大型区画・大型墓壙造営行為が稀薄 九州北部・対馬地域。
*鉄刀剣副葬がなされる一方で青銅器埋納、大型区画・大型墓壙造営が稀薄 中部高地・関東南部地域。
*青銅器埋納に力を注ぐ一方で鉄刀剣副葬、大型区画・大型墓壙造営が稀薄 近畿中部・東海地域。
*弥生後期の日本列島において鉄刀・長剣が分布 九州北部・吉備南部・日本海側諸地域に多い。

以上を判断してみると、

大型区画・大型墓壙 山陰・吉備南部・近畿北部・北陸地域。 
大型区画・大型墓壙造営が稀薄 九州北部・対馬地域。
大型区画・大型墓壙造営が稀薄 中部高地・関東南部地域。
大型区画・大型墓壙造営が稀薄 近畿中部・東海地域。

これから解ることは、古墳時代に急に大型古墳が現れるのは、山陰(出雲国など)・吉備南部(吉備国など)・近畿北部(但馬国、丹後国など)・北陸(越国)のいずれかが、大和朝廷を制圧したか。九州、中部高地(長野県など)、関東、近畿中部、東海などは中、小型の古墳造営に注力していたのではないか。大型古墳は吉備国の楯築弥生墳丘墓と出雲国の四隅突出型墳丘墓(弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制)が合体したものか。山陰・吉備の墓制だけが移動したとは考えがたく、崇神、垂仁、景行は私見で恐縮ではあるが崇神、垂仁は吉備系の人で、景行は山陰系の人と思われる。これら三代が大和朝廷に参画し、神武・大伴系は倒壊したか。あるいは、大和・吉備を折衷したのが山陰系の景行天皇かも知れない。結論を言うと、方形周溝墓は日本の畿内で開発されたものであり、その系譜が、方形周溝墓から前方後方墳、前方後円墳へと繋がって行ったのではないか。この意味からも、私見が勝手に想像している神戸市の西求女塚古墳(全長98メートルの前方後方墳)、処女塚古墳(全長70メートルの前方後方墳)、東求女塚古墳(全長80メートルの前方後円墳)の各々の古墳はその造営の由緒来歴を表している。即ち、新方遺跡の方形周溝墓から前方後方墳、前方後円墳への変遷が解る。

米(こめ)の遺伝子にしても、
「中国、朝鮮半島、日本列島の水稲在来品種 250 種の SSR*多型の分析から、8 遺伝子(a~h)がある。中国には 8 遺伝子全てが存在し、朝鮮には b を除く 7 遺伝子が存在するのに、日本には a と b の 2 遺伝子しかない。a 遺伝子は中国には高頻度で分布していませんが、朝鮮半島と日本には高い頻度で分布しており、朝鮮半島を経てきたと推測できます。一方、b 遺伝子は朝鮮半島の在来品種には見当たらず、中国大陸から直接日本に達するルートを経てきたと思われます。つまり、水稲と水田稲作技術は、朝鮮経由と中国から直接の 2 ルートで渡来したのです(佐藤洋一郎博士)。」
水稲には、8種類の遺伝子(a~h)があるが、日本には a と b の 2 遺伝子しかないと言うが、これも中国で動乱等があったときに、長江河口の上海村と蘇州村の人が食料として各々米を持ってきた。そのとき上海村の米の遺伝子はa、蘇州村の米の遺伝子はbだったとか。朝鮮半島の稲は何回にもわたっててんでんばらばらに導入された。「朝鮮には b を除く 7 遺伝子が存在する」とまとめて書くと何か一回で朝鮮半島へ稲が入ってきたような気がするが、そうではないと思う。遺伝子のa、b、cなどというのも一般的には規則性があって付けられることが多く、(例として、aの次にbが分岐したとか)、aとbとは近しい関係にあった。以上より朝鮮半島のものは全体の整合性に欠けるように思われる。因みに、インターネットを見ていると、一般の人の見解かも知れないが稲の朝鮮半島からの渡来説は非常に少ないように思われる。おそらく朝鮮半島から日本へ稲が移入されたなら、日本の稲の遺伝子は朝鮮半島と同じくなっていたのではないか。上海から日本へ何回稲が入ってきたのかと言われれば一回と言いたいが何回にもわたって入ってきたのだろう。そのルートは上海から現在の長崎県あたりかと思う。

4.近畿地方最古の弥生時代前期の人骨の検出

新方遺跡の遺骨は、いわゆる古墳時代の古墳から出土するエリート層の遺骨ではなく、一般庶民の遺骨なのでいろいろな事故、事件、病気、職業等の痕跡が残っているようだ。しかし、我々現代の人間にとっては、おどろおどろしいものが多く(例として、
合計17個の石鏃が刺さった人骨)、あまり見たくない、知りたくない遺物のようだ。新方遺跡はいろいろな意味において、縄文時代と弥生時代の混在した遺跡のようで、そういうところには異人種間の紛争が起きることはよくあることである。しかも、遺骨をよくよく見てみると葬儀をして遺骸を方形周溝墓などに埋葬されるのはやはり集落への貢献度が高かった人あるいは一家ではなかったか。
合計17個の石鏃が刺さった人骨、と言っても集落を敵軍から守るための名誉の負傷かも知れない。受傷痕のない人は逆に敵をなぎ倒したかも知れないし、歯の摩耗の激しい女性は皮革のなめしの名人だったかも知れない。新方遺跡のある集落は縄文人と弥生人の融合する前の日本人の原形を留めており、異人種と言おうか異文化と言おうか、その種の人々が現在の我々につながっていると言うことは興味深い。

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