得能山古墳と念仏山古墳は誰の墓か

✡はじめに

得能山古墳(1924年遺物発見)と念仏山古墳(1978年念仏山地蔵尊発見)と言う古墳が発見されて割と近くにあるので対で論じられることが多いようだ。以下、双方の古墳の詳細を述べると、

1.得能山古墳

ふりがな
とくのうざんこふん

造営期
古墳時代・4世紀

所在地
兵庫県神戸市須磨区板宿町3

遺構概要
古墳(前方後円墳)。<立地>山稜突端。標高50m、南側の水田面からの比高約35m、葺石なし、(内部主体)位置:後円部か、割竹形木棺、竪穴式石槨長3m以上(南半損壊)・高1.2m・幅0.91m(主軸南北)、遺体:頭蓋骨(下層に朱層)・女性・50歳前後、頭位北。

遺物概要
埴輪なし、内行花文鏡1、画文帯神獣鏡1(画文帯同向式神獣鏡〔中国製・2~3世紀〕)

内行花文鏡1+鉄刀1。八弧内行花文鏡(<文字>「長〓子孫」</文字> <文字>「寿如金石」</文字> <文字>「佳且好兮」</文字>、欠損15.4cm、1923年出土、現物行方不明)、
画文帯同向式神獣鏡(<文字>「・・・大吉〓子君・・・」</文字>、完形14.6cm、1923年出土、東博蔵)、伴出、鉄刀+鉄剣+鉄鏃。

2.念仏山古墳

ふりがな
ねんぶつやまこふん

造営期
古墳時代・4世紀後半

所在地
兵庫県神戸市長田区浜添通6丁目

遺構概要
古墳(前方後円墳)。<立地>平野(砂堆土)。標高3m、周辺の平地からの比高0m、方位ほぼ西北西、周濠存在の可能性大、墳長推定約200m(160〜190mの推定値もあり)、<保存状況>消滅。

遺物概要
埴輪(円筒埴輪II式(ひれ付)+器財埴輪(蓋形埴輪))+二重口縁壺。

発掘概要
所在地について、東尻池という地名以外には確たる資料を欠いてきたが、1978年に喜谷美宣が浜添通6丁目東端に念仏山地蔵尊が祀られていることを確認し、その一部の証左をえている。陸地測量部の1906年の2万5000分1地形図に瓢形の等高線が、1907年頃の地積図にも東西方向の山林が確認できる。1916年頃まで旧苅藻川東岸に高さ5mの小山が残存していたという。1992年3月15日実査。

いずれの古墳も西暦4世紀代に造営されたもののようである。しかし、きちんとした形では残っておらず、大きさ等は推定になっている。特に、得能山古墳は被葬者が女性で、かつ、中国製で2~3世紀頃の製作の鏡が4世紀の日本で埋納されたというのは、かなりの大物感を漂わせる。古墳の評価の基準はいろいろあるだろうが、一応、弥生時代から古墳時代の古墳の評価方法として副葬品の「鏡」があり、兵庫県の副葬された鏡について検討してみる。

✡兵庫県の副葬品の鏡から見た古墳

『兵庫県内古鏡集成表』兵庫県立考古博物館(平成29(2017)年9月23日掲示)と言うウェブサイトで、【兵庫県内古鏡集成表 弥生時代~古墳時代】と言う一覧があり、そのうち一基の古墳から五枚以上「鏡」が出てきた古墳を抽出してみる。

1.へボソ塚古墳 神戸市東灘区岡本1丁目 三角縁神獣鏡他6面
2.東求女塚古墳 神戸市東灘区住吉宮町1丁目 三角縁神獣鏡他10面
3.西求女塚古墳 神戸市灘区都通3丁目 三角縁神獣鏡他12面
4.阿保親王塚古墳(推定) 芦屋市翠ヶ丘町 三角縁神獣鏡他7面
5.藤江別所遺跡 明石市藤江町別所 櫛歯文鏡他9面(井戸の中から出てきたという日本では二例しかない埋納方法)
6.敷地大塚古墳 小野市敷地町宮林 四獣鏡他7面
7.権現山51号墳 たつの市御津町中島 三角縁神獣鏡5面
8.吉島古墳 たつの市新宮町吉島 三角縁神獣鏡他7面
9.城の山古墳 朝来市和田山町東谷 三角縁神獣鏡他6面

これを見ると西摂の中心地は今も昔も神戸市であり、東求女塚古墳や西求女塚古墳の被葬者は大和朝廷の傘下にあったとしてもこの地域の領主であり、迫り来る六甲山地で狭隘な神戸市を避けて播磨平野へ進出しようとしたのか播磨方面の豪族へ「鏡」の贈与が手厚くなっている。もっとも、三角縁神獣鏡が多いのは大和朝廷が直接首長にご下賜したという人もいる。
このほかに、処女塚古墳もあるが、昭和54年4月1日から昭和60年3月31日の神戸市による整備事業によると、前方部は、ほぼ全域を発掘調査したが、墳丘の流失が著しいうえに攪乱が多く原形をとどめている部分は少なかった。箱式石棺1基が検出された。棺内からの出土遺物はなかったが、蓋石直上から滑石製勾玉1個が出土した。また、墳丘上から壷形土器片が出土した。後方部は、墳丘の流失、攪乱が著しく原形を残している部分は、ほとんどなかった。遺物は、墳頂から鼓形器台が出土した。また、くびれ部の東西両下段から壷形土器が出土した。結局、何も出てこなかったらしいが、一般的に考えて東求女塚古墳や西求女塚古墳程度のものがあったのではないか。
この神戸市の豪族の山陽道における限界は現在のたつの市あたりで、『古事記』孝霊天皇段にある、「大吉備津日子と若建吉備津日子とは、二柱とも播磨の氷河の埼に斎瓮をすえて神を祭り、播磨国を入口として、吉備国を平定した。」の原話になった事実か。孝霊天皇は弥生時代の人であり、大吉備津日子と若建吉備津日子は古墳時代の人であろうからそんなことを言うのはおかしい、と言うかも知れないが、古典にはそんなことは往々にしてある。大吉備津日子は吉島古墳(3世紀後半造営)の被葬者か、若建吉備津日子は権現山51号墳(3世紀後半造営)の被葬者か、氷河は揖保川か、斎瓮は粒坐天照神社(龍野町日山にある。氷河は日山の対の語?)か。

以上を判断すると、神戸市の領主は一方では播磨平野を目指しているものの他方では領主の墳墓を代を重ねるごとに西から東へ徐々に移動している。換言すると、本拠地を現在の神戸市から播磨平野か大阪市に換えたいと言うことである。東西両用の構えである。なぜそのようなことをするのかと言えば、六甲山地が海岸まで迫って、沖積平野が少なく、他の地域のように大規模な水田稲作ができない。干拓も難しかった。大和国と吉備国に挟まれ、どちらにつくか去就をはっきりとさせなければならなくなった。もっとも、神戸市の豪族は神武天皇結成の軍事同盟(参加したのは大和国外では道臣命と八咫烏、あとは大和盆地の中小領主。神武東征はやや怪しい。)に当初より加盟していたか。即ち、道臣命と八咫烏のいずれかは神戸市の豪族か。

✡結局、神戸市の豪族は誰か

神戸市の西求女塚古墳や東求女塚古墳の遺物を見ていると西求女塚古墳では、石材や土器に山陰や四国・南近畿などの諸地域のものがありとか、瀬戸内海や大阪湾など水上交通に影響をもつ首長とか、三角縁神獣鏡は京都府の椿井大塚山古墳、福岡県の石塚山古墳、奈良県の佐味田宝塚古墳、広島県の中小田1号墳などの出土鏡とは同笵の関係にあるとか、広い交際範囲の人である。他の処女塚古墳とか東求女塚古墳は破却が進んで参考にはならないが、墳形が前方後方墳から前方後円墳に変わる時期などが明確であれやこれやを勘案すると神戸市にいた豪族は後世の大伴氏ではなかったか。また、この大伴氏の神戸市における東方指向は神功皇后が三韓征伐後長田、生田、広田の神社を創建したと言う話と似た話ではないか。おそらくこれらの神社名は大伴氏の田地の神社名で、大伴氏が長田、生田、広田の順に開墾していったものではないか。他に海神の住吉大社も出てくるがこれも大伴氏と縁の深い神社で大伴氏あるいはその前身の氏族が創建したものではないか。元々大伴氏は海人族で、さればこそ神戸を本拠地にした。航海業、漁業、海運業、交易業、製塩業等を行い、農業の導入は少しばかり遅れたか。

✡まとめ

つらつら考えるに、神戸市で大きな前方後円墳を造営できるのは大伴氏しか考えられない。特に、墳長推定約200mと言う念仏山古墳は天皇級の古墳であり、得能山古墳も被葬者が女性で、かつ、中国の古鏡が100年ないし200年後に日本で埋納されるというのも、よほどの身分の人か夫が高位高官かと思われる。もっとも、古鏡5枚以上を埋納してあった神戸市内の古墳は、1.へボソ塚古墳 神戸市東灘区岡本1丁目 三角縁神獣鏡他6面、2.東求女塚古墳 神戸市東灘区住吉宮町1丁目 三角縁神獣鏡他10面、3.西求女塚古墳 神戸市灘区都通3丁目 三角縁神獣鏡他12面、4.阿保親王塚古墳(推定) 芦屋市翠ヶ丘町 三角縁神獣鏡他7面、5.処女塚古墳 神戸市東灘区御影塚町(枚数不明)があるが、西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳は一つのグループの古墳としても、へボソ塚古墳、阿保親王塚古墳は各々別の豪族の古墳であろう。とは言え、西求女塚古墳・処女塚古墳・東求女塚古墳グループ(大伴氏)と他の古墳には格差があり、大伴氏が首長で他の古墳は重臣の古墳でなかったかと思われる。
ところで、神戸市には天皇級の大古墳が五色塚古墳(全長194m)と念仏山古墳(推定全長200m)がある。いずれも被葬者は不明だが五色塚古墳は「(伝)第14代仲哀天皇の偽陵」(『⽇本書紀』神功皇后摂政元年2⽉条が関連記事)なる逸話があるそうな。念仏山古墳の方は王子(香坂王・押熊王)は神功皇后軍を邀撃するために、仲哀天皇の陵墓を築造すると称して、要塞を築いた(=念仏山古墳)などと言うのはいい加減な話で、いずれの古墳(五色塚古墳・念仏山古墳)も正当に築造されたものではないか。
五色塚古墳は大伴氏推薦のもと応神天皇の許可により『日本書紀』の「応神天皇3年11月阿曇連の祖大浜宿禰を遣わして諸所の海人の騒ぎを鎮めさせ、宿禰を〈海人之宰(海人の統率者)〉とした」の論功行賞で、五色塚古墳を造営したもののようである。また、阿曇大浜の息子の阿曇浜子は住吉仲皇子が仁徳天皇の皇太子である去来穂別皇子(のちの履中天皇)に反旗を翻した際に、仲皇子に味方し、淡路の能嶋(のしま)の海人を動員したといい、阿曇氏と淡路島は無関係ではない。応神天皇は高句麗の好太王の追撃に備え明石に大浜宿禰を配置した。
念仏山古墳は、一応、応神天皇の裁可で五色塚古墳を造営したのであるが、古墳を見て異を唱えたのが応神天皇である。許可を与えた人がどうして異を唱えるのだ、と言うことになるのだが、そもそも応神天皇は『古事記』中巻仲哀天皇段「娶息長帶比賣命是大后生御子、品夜和氣命、次大鞆和氣命・亦名品陀和氣命。二柱。此太子之御名、所以負大鞆和氣命者、初所生時、如鞆宍生御腕、故著其御名。是以知、坐腹中定國也。此之御世、定淡道之屯家也。」とあり、ここのポイントは「大鞆」とか「淡道」という語で応神天皇の両親と称する仲哀・神功は怪しく、景行天皇(忍代別)が実父であったと思う。景行天皇の得意技は乗っ取り、居座りなどで応神天皇の役割は大伴氏乗っ取りだったのではないか。そこまで言わなくとも、応神天皇と大伴氏は何らかの血縁関係があり、五色塚古墳を見た途端に大伴武以を呼んで「我々が今あるのは武日叔父のお蔭ではないのか」などと縷々述べてすでに完成している武日の墓(東求女塚古墳か)を大型古墳に再造営させたのではないか。武以は元の墓はそのままにしておいて新古墳を造営したので副葬品などは意に満たないものではなかったか。それを外部の者が図体は大きいが中身は空っぽと言い偽墓ではないのかと言い出し「(伝)第14代仲哀天皇の偽陵」説ができたのではないか。即ち、念仏山古墳は応神天皇肝いりの大伴武日の墓だった。
一方、得能山古墳は女性の古墳でかなり手の込んだ古墳と言うことで、大伴氏関係者の古墳と思われる。念仏山古墳と同じ時期に関連墳墓として造営されているようなので、大伴武日夫人、大伴武以の母の墓ではないかと思われる。
大伴氏はそれまでの前方後方墳から武日の代で前方後円墳に代わったようだ。武日の代に完全に大和朝廷の傘下に入ったと言うことか。息子の武以からは大阪に引っ越したか。神戸市は今でもそうだが田畑にするような沖積平野が少なく、大伴氏にとっては非生産的、非効率な大形墳墓は必要がなかったのではないか。大伴氏は中小豪族はそれなりに慎ましくがモットーだったのかも知れない。換言すれば、大伴氏は水田稲作による食料量産に後れを取ったと言うことで、具体的には大和の中西・秋津遺跡や吉備の岡山市北区津島遺跡のようなものがなかった。海人族である限りは神戸市でも良かったが、大和や吉備に伍して行くには少しばかり足りなかった。

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