三鷹の語義

✡ はじめに

中央線沿いに「三鷹駅」があり、三鷹市という行政区域もある。三鷹の意味が解ったような解らないような文字なのでインターネットで見てみたら、
1. 「江戸時代、代々の将軍の鷹場があり、御鷹場村と呼ばれていたことに由来。」
2.「江戸時代に幕府、尾張徳川家の鷹狩場であったことに由来する。俗称御鷹場村といった。」
3.「江戸時代に徳川将軍家や御三家が鷹狩を行なった村が多かったことと、その地域が三つの領にまたがっていたこと(三領の鷹場)とされているが、文献が焼失した為に実のところよくわかっていない。」
4.「江戸時代に徳川将軍家および御三家の鷹場で、世田谷領・府中領・野方領にまたがる「三領の鷹場」と呼ばれていたことから。 」などまちまちなことを言っているが、
常識的には3.が一番妥当で、失礼ながら語呂合わせでは4.説と言うことになろうかとも思われる。三鷹市の見解は上記の説を全部足したような見解で、特に、「鷹場」に興味を示しているようで、「三」の文字にはあまり意義を認めてはいないようだ。
行政区域に「鷹」の字がつく市区町村は「鶴」の字ほど多くはないようだが、それなりにあるようで、現在は、

「鷹」を含む市区町村としては、

上川郡鷹栖町(北海道かみかわぐんたかすちょう)アイヌ語「チガツプニ(大きな鳥がいる所)」の和訳。

西置賜郡白鷹町(山形県にしおきたまぐんしらたかまち)山岳名。「ヒラ(傾斜地・崖)・タカ(高)」の転か。

三鷹市(東京都みたかし)

だけになってしまったが、

『市町村名語源辞典』溝手理太郎 編、平成4年7月発行(東京堂出版)で、合成地名や鷹匠町、鷹司町、鷹飼町などの語義がハッキリしているものを除いて検討してみる。

✡鷹のつく地名

今はない市区町村名。語義は『市町村名語源辞典』溝手理太郎 編による。

鷹島(たかしま) 長崎県北松浦郡鷹島町(現・松浦市鷹島町)「タカ」(水面から高くなった所)・「シマ」(島)で、同義反復。
鷹巣(たかのす) 秋田県北秋田郡鷹巣町(現・北秋田市鷹巣町)タカ(高)・ノ・ス(砂)で、高くなった自然堤防。

「鷹」を含む町域名

鷹取(たかとり)は、高取とも書くが(現・奈良県高市郡高取町)非常に多い地名で多くの場合は山名にもなっている。語義としてはタカ(高)・トリ(崩壊地形)で、高い崖のことか。実際の地形もそういう所が多いようだ。例として、神奈川県横須賀市鷹取山は、「標高139mの鷹取山は、垂直に切り立った岩石が特徴で、「湘南妙義」の別名があります。」と言う。

鷹巣(たかのす)は鷹栖、鷹ノ巣などとも書き、語義は北秋田市鷹巣町を参照。鷹巣岡草山(山形県北村山郡大石田町たかのすおかくさやま)と言う地名もあり、この場合の鷹巣は丘陵地ほどのものを言うか。

鷹羽(たかば)は鷹場のことか。

鷹ノ子(鷹子)(たかのこ)山口県下関市豊田町鷹子(とよたちょうたかのこ)、愛媛県松山市鷹子町(たかのこまち)。高野子とも書く。愛媛県東宇和郡城川町高野子。語義は山口県下関市豊田町鷹子では「地名の由来を「地下上申」は「往古涼松と申大木有之、鷹巣を懸ケ申たる由、其故鷹子村と申伝候」と記す。」が、子供だましのような話で不明である。金子をキンスと読むようにタカ(高)・ノ・ス(巣・砂)で元々は鷹巣(たかのす)だったか。鷹子をタカノコと読むのは後世の誤読か。

鷹尾(たかお)は高尾で、例として、宮崎県都城市南鷹尾町(みなみたかおちょう)、福岡県柳川市大和町鷹ノ尾(やまとまちたかのお)、高い尾根を言ったものか。

南鷹見町(みなみたかみまち)の鷹見は、物見とか高見などと同語源の偵察係、また、偵察用の見晴らしのいい所のことか。

鷹来町(たかきちょう)は、高木のことか。

小鷹町(おだかちょう) 新潟県燕市小高(こたか)の語源に「三条城主 山吉豊守家臣・小鷹孫三郎の給地」とある。小高い丘のことか。

鷹合(たかあい)「日本書紀の応神天皇43年9月条があり、百済系渡来人の酒君に依羅屯倉阿弭子(ヨサミノミヤケアビコ)が献上した鷹の飼育を命じた伝承があるので、沿岸地域に「鷹合わせ=鷹狩」が得意な百済系渡来人が定着していた」と。鷹合、鷹合わせ、鷹狩り。

以上を総括すると、地名の「鷹」の字はほとんどが「高」の字の代用と思われ、また、「三鷹」は本来「三高(みたか)」と書くべきだったか。

✡「牟礼」の地名

三鷹市の文献初出の地名は「無連(むれ)」と言うことで、三鷹市の中で最も古い地名と言う。1559年(永禄2年)に編纂された『小田原衆所領役帳』には「無連」としてその名が記されている。内容は、
「大橋 廿貫文無連高井堂大普請之時半役」とあり大橋は髙橋の書き間違いかとも思ったが、高橋氏が世田谷区烏山の方へ延びているのに対し、大橋某は杉並区高井戸を知行地としているので大橋、髙橋は別人なのであろう。また、高井戸には高井氏という旧家があったようでこの一族は何をしていたのだろう。当時の「無連(むれ)」とは井の頭池を起点に今の三鷹市牟礼、世田谷区烏山の地域と杉並区高井戸の二つの地域に分かれていたのかも知れないが、隣接地なので領主は一人だったか。ここで問題になるのは、

1.牟礼の語義は朝鮮語に由来するものか、はたまた、日本語か。
2.どういう経緯で牟礼と言われるようになったのか。

1.牟礼というのは朝鮮語で「山」を意味するという説が、古くから有力に唱えられている。一方、日本語説では「群(ムレ・村落)説が有力である」と言うものの「古代朝鮮語において、mori、moreは高低差のある台地付近のことを「mori/more」と表現されている」とまことしやかに述べられている。
あるいは、「日本で使われる牟礼は鍋をひっくり返したような平山を意味し、九州には「〇牟礼山」の異名を持つ山が相当数存在します。」と言うが、こう言う高台は一般に集落の神聖な場所と考えられており、神社仏閣とか領主の家とか城、砦、とか、市(いち)の開催、祭事などが行われた所で、世界中のどこにもあるような山で、ギリシャのポリスとアクロポリスが有名だ。都市国家の発生した所なら、例えば、古代ローマ、古代インド(インダス文明)、古代中国(黄河文明、中国語では「國」「邦」「邑」と呼ばれた)など、古代には世界各地で見られる。その後、いわゆる都市国家になる。
そもそも朝鮮語はハングルの出現までは発音は不明、たくさんの国の出現があり(例として、高句麗、新羅、百済の三国、沃沮<ヨクソ>、濊<ワイ>、挹婁<ユウロウ>、夫余<フヨ・現在の中国東北部(満洲)にかつて存在した民族およびその国家>など、どの国の言葉が現代の朝鮮語に繋がっているかは解らないが、中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じ、沃沮と濊もほぼ同じ。一方、東の挹婁は独特の言語を使っていたとされ、夫余の言語と異なる。ここで朝鮮半島には二つの言語系統が存在した。夫余語(扶余諸語)が現在のどの系統に属すのかについては古くから論争があり、現在に至ってもよくわかっていない、など諸説紛々としている。
そこで、韓国の言語学者李基文先生の「高句麗の言語とその特徴」と言う論文では、朝鮮語を遡るには中国や朝鮮の古典をひもといて朝鮮半島に関わる語彙を抽出し、検討を加えると言うことになるそうで、山は高句麗語で逹(tal)と言い、日本語で嶽(take、<talke)とか高(taka、talka)と言うそうな。
しかし、この説は日本人には解りづらいので、日本人の山中襄太先生の見解を記すと、「朝鮮語・満州語・モンゴル語で山をtak<タク>と言う」と宣い、類似語として、マレー半島サカイ語toko、ビルマ語tong、シベリア西部オスチャク語tang、アラビア語dak、メソポタミアのシュメール語takeと言うとある。従って、東アジアで山をムレなどと言ったのはどこにもないのではないか。特に、アラビア語dakとかシュメール語takeは日本から遠いのにもかかわらず、日本語に似ている。特に、三鷹市には高句麗の移民(高麗氏と言い、好太王の子孫という)が多く、『名字由来net』では三鷹市が市区町村では一位になっており、『日本姓氏語源辞典』では相模原市と同数で二位になっている。また、『日本姓氏語源辞典』では小地域順位で、三鷹市新川が一位になっている。
以上より判断するならムレは日本語の群(ムレ)で、村(集落)を意味するものなのだろう。そもそも、ムレは「九州には「〇牟礼山」の異名を持つ山が相当数存在します。」とか、「〇牟礼山は古くから陣地・砦・あるいは城として多用されており、牟礼は軍事用語の感さえあります。」とか、「九州、特に大分県には「ムレ」地名が集中的に見られ、花牟礼山・栂牟礼山・角牟礼山・大牟礼等々の地名が多数確認できます。」と言うが、どれもこれも軍事侵攻に備えたもので、〇牟礼山は、昔の高地性集落のことで、九州のムレは軍人のムレ(群)で、今で言う自衛隊の駐屯地を言うのではないか。何せ古代日本は何事も情報を得るには山の高みから観察しなければならず、大分県に多いのも高句麗の軍船の動き・規模等を観察するためであろう。また、白村江の敗戦後はますます九州や西日本に軍事基地が設置されたのではないか。

牟礼という言葉はどこから来たのかと言えば、当地の名主である高橋氏は、大蔵春実を祖とする大蔵党の子孫で、光種が筑後国御原郡高橋に住み高橋光種と名のったのがはじまりだとされる。統種の子高種は出奔して京都に上って室町将軍足利義尚に仕え、その後、伊豆に流れて、後北条氏に仕えた。その子の一人綱種は北条氏綱の猶子となり、北条氏を名乗るが、子孫は後に高橋氏に復している。率直に言うと、高橋氏は九州福岡県出身で、京都、伊豆、小田原を経て現在の三鷹市へ来たようである。出身は福岡県三井郡大刀洗町上高橋から下高橋への広大な一帯かと思われる。上述、統種の子に長種と高種があり、長種には後継者がなく豊後の戦国大名大友宗麟は一族の一万田右馬助に高橋家の家名を継がせ、高橋三河守鑑種とした。鑑種の方が本家であろうが、高種には氏種(烏山系高橋氏)と綱種(牟礼系高橋氏)がいたようだ。福岡県には牟礼の地名は残っていないが、お隣の久留米市には高牟礼中学校、 久留米市役所高牟礼市民センター、高牟礼会館など、公共の施設の名にその記憶が残されている。以上より三鷹市の牟礼の地名は、元々三鷹市の地名という見解もあるが、高橋氏が九州から運んだものではないか。
高橋氏は、主(北条氏綱)命あって綱種は江戸城を進発し深大寺城に対峙して砦を築く。天文六年(1537)十一月十五日綱種は陣内鎮護のために芝の飯倉神明宮の御分霊を勧請し高番山(現在地)に祀る。(牟礼)神明社にはほかに稲荷神社も合祀しており、高山(稲荷山)に祀られていたという。今の高山小学校あたりに小高い丘でもあったか。また、文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』と言う書物によると「当時の無礼村には、当社の他に「三十番神社」と云う神社があり、こちらが鎮守として記してあるため、当社は名主・高橋氏の氏神だったか。」との説あり。「三十番神社」について検討してみると、「三十番神(さんじゅうばんしん)は、神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことである。太陰太陽暦では月の日数は29日か30日である。」と言い、中世以降は特に日蓮宗・法華宗(法華神道)で重視され、法華経守護の神(諸天善神)とされた。三鷹市牟礼には真福寺という寺院がありおそらく高橋氏の菩提寺だったのであろう。『三鷹市史』によると「真福寺 高栄山 (牟礼1-2-17)天正年代(一五七三-一五九一)牟礼村成立のころ、高橋綱種の末弟で目黒碑文谷の法華寺(日蓮宗、のちに天台宗円融寺となる)の僧であった日栄がひらいた。池上本門寺末で明治期には、お会式などはおおいに賑った。」とあり、おそらく、神明社は高橋氏の氏神で村社にはふさわしくない、などと難癖を付けるものが出て、日蓮宗の寺院だった真福寺が祀っていた三十番神を三十番神社としたと言うものではないか。また、三鷹市牟礼には御嶽神社が多く、個人のフェイスブックによると、「御嶽講が今日でも活動している三鷹市牟礼の御嶽神社は、もともと牟礼一丁目の東牟礼御嶽神社(三鷹市牟礼1-6-19)・牟礼三丁目の牟礼御嶽神社(三鷹市牟礼3-7)、牟礼六丁目の西御嶽神社(三鷹市牟礼6-1)の3社に石狼がありましたが、東牟礼御嶽神社の方は道路拡張のために取り壊されており、急いで残りの神社を回りました。」とあり、今は風前の灯火のような感じだ。また、「三鷹市 三十番神社」をインターネットで検索すると「八幡大神社」(東京都三鷹市下連雀4-18-23)が出てくる。今は検索もAIとかChatGPTとかを使用し、調査項目がなくとも類似の項目を探し出してくれるようだ。以前の牟礼村は現在の井の頭地区、牟礼地区のほかに、下連雀五丁目も牟礼村になっていたようであり、下連雀四丁目は以前は牟礼村に入っていたかも知れない。今は牟礼地域に入っていないので牟礼村の神社としては取り扱わないと言うことか。

✡概略のまとめ

長々と冗長になってしまったので一纏めすると、

1.通説という「徳川将軍家および御三家の鷹場で、世田谷領・府中領・野方領にまたがる「三領の鷹場」説は、三代将軍家光公も鷹専門で井の頭に来たわけではないようで、『徳川実紀』には、寛永二年(1625)十一月のこの地の狩猟で、家光らは鹿43頭、うさぎ1頭という大量の獲物をしとめたとある。家光のこのときの奮闘ぶりは、鉄砲、槍、太刀を一人で駆使し、鹿4頭を仕留める大活躍をみせている。(記録は林羅山を記録係として同道させ『林羅山詩集』にこの日の狩猟の様子を事細かに記している。)鷹なんてどこにもいない。もっとも、獣狩りは一般庶民も見物できたようだが、鷹狩りはできなかったと言うことで人に見せるほどの成果は出なかったのだろう。三鷹市は「鷹場の碑」なるものが三個あると宣っているが、この種のものはその後都市計画とか道路の拡幅工事とか土地の分割等であちこちに動かされ、元々どこにあったのかは解らないというのが多い。特に多摩地区の神社仏閣にあるものはその種のものが多い。なお、Wikiによる「鷹狩」→「日本の鷹狩り」→「近世」によると以下のようになっている。

「江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。3代将軍・家光は特に好み、将軍在職中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。将軍家と大名家の間では鷹や鷹狩の獲物の贈答が頻繁に行われ、また、参勤交代で江戸にいる諸大名に対しては江戸近郊に拝借鷹場を定めて鷹狩を許した。

一方で鷹狩は殺生にあたるとして行わない将軍や藩主もいた。5代将軍・綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止し、鷹狩に関連する贈答もすべて禁止した。

生類憐れみの令は綱吉死後に廃されたものの、鷹狩が復活するのは8代将軍・吉宗の享保年間であった。

江戸時代の大名では、伊達重村、島津重豪、松平斉貴などが鷹狩愛好家として特に著名であり、特に松平斉貴が研究用に収集した文献は、今日東京国立博物館や島根県立図書館等に収蔵されている。

鷹は奥羽諸藩、松前藩で捕らえられたもの、もしくは朝鮮半島で捕らえられたものが上物とされ、後者は朝鮮通信使や対馬藩を通じてもたらされた。近世初期の鷹の相場は1据10両、中期では20-30両におよび、松前藩では藩の収入の半分近くは鷹の売上によるものだった。

藩主が鷹狩を行う御鷹場は領民からみると禁猟区の御留野(おとめの)であり、鳥見役や下鳥見役を置いて密猟の監視や区域内の鳥獣の死骸の検分など厳重な管理を行った。鷹狩に用いる鷹の繁殖をはかるため、その巣を保護するため、狩猟や入山を禁じた山もあり、それらは巣山や巣鷹山と呼ばれた。鷹狩の際には近隣の農民の多くが勢子として駆り出されるため藩主と農民をつなぐ大きな行事でもあった。」

以上より、「三領の鷹場」説は明治時代になっても江戸時代の話を持ち出しておりはなはだ疑問だ。

2.通称「御鷹場村」を一般には「おたかばむら」と読むのに「みたかばむら」と誤読し、かつ、場、村は下略して、御鷹を三鷹と誤記。

3.三鷹市には正規の高い山はなく、高番山(牟礼神明社のあるところ)、高山(稲荷山、神明社に合祀された稲荷神社のあったところ。今の高山小学校界隈か)、高栄山真福寺(高栄山は真福寺の山号)。これらの高番山、高山、高栄山の「高」の字を集めて「三高」としたのを高を鷹に代えて瑞祥地名にしたか。

4.井の頭池が三鷹村に編入されたのは1889年(明治22年)- 町村制の施行、および 牟礼村・大沢村・上仙川村等の合併による、神奈川県北多摩郡三鷹村となったときではないかと思われる。この時、政治力を発揮したのは牟礼村の高橋氏で「御殿山の地名は、家光が鷹狩りに訪れた際の休息のため、井の頭池を見渡す場所に御殿を造営したことに由来する。」などと言う前時代の話はバッサリと切り捨てて、経済価値のある井の頭池を三鷹村に取り込んだのではないか。その論功行賞として高橋氏の親、子、孫を記念して「三高」としたのを「三鷹」の佳字を当てたのではないか。また、高橋氏は玉川上水に取水口(正確には牟礼分水取水口・分水堰と言うらしい)を設け、今のUR三鷹台団地に水田を開墾したようで、水田の少ない江戸近郊にあって当時では奇特な人ではなかったか。あるいは、髙橋家は北条早雲の外孫で、後北条氏の第5代当主氏直は徳川家康の娘婿であったので江戸時代に後北条氏は河内国狭山藩の藩主家になったりした。そこいらも何か関係があるか。

5.牟礼には御嶽神社が多く、そもそも御嶽と言う漢字も御嶽、御嵩、御獄、御岳などと書き、正解は一個なのだろうが、使用している人は自分が使っている漢字を正とするだろうから、何とも言えないが、「古くから岳が嶽の古字とされている。」などと宣う人もおり決着はつかない。私見では「御嵩(みたけ)」が「みたか」と誤読され、これを三鷹の佳字にしたのではないかと考える。御嵩町のホームページの冒頭に「「御嵩町」なんて読む?「みかさちょう」「みたかちょう」?答え 「みたけちょう」と読みます」とある。

✡最終のまとめ

三鷹市は旧石器時代からの歴史があるそうだが、やはり有史時代からとなると牟礼には城ないし砦があったりしてわずかではあるが文字の検討ができる。先史時代となると事細かな遺物や遺構が残らないと判断が難しい。吉祥寺村(武蔵野市吉祥寺)では個人が板碑を持っていると言うが、鎌倉時代からなどと言われても雲をつかむような話だ。板碑は板石塔婆ともよばれ、供養、講による活動を記念した石碑である。板碑は13世紀前半から17世紀初めに造立された石造物で、ほぼ全国に分布が見られるが、石材等によって地域性が見られる。いわゆる武蔵型板碑は秩父、長瀞地域から産出される緑色片岩(緑泥片岩)製の板碑である。
板碑の種類には、追善供養、逆修供養(生前供養)、庚申供養、月待供養、夜念仏を祈念して造立されたものがある。板碑が造立された初期は、主に武士たちが、亡くなった親族の供養や、造立者の死後の冥福を祈るために造立したものが主流だが、庚申信仰や日待、月待の民間信仰が盛んになると、一般庶民層まで広がり、講衆による結集板碑等の板碑が造立されるようになった、と言う。高橋氏は当初より神社仏閣のついた氏族でそろばんはともかく読み書きはできたと思われ牟礼は有史時代で始まったと言ってもいいのではないか。文字の誤写誤読はよくあることで「御嵩町」を「みたかちょう」と読んだところで何の不思議もない。

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