ポップソングのプロパガンダ。私はそんなにポジティブじゃない。



ポップソングが苦手

ずっと前から違和感があったのだけれど、
メディアから流れるポップソングの「夢!友情!希望!仲間!明日はきっと!応援!」みたいな歌詞が大嫌いだ。

私はそんなルフィみたいな人間じゃないし、
「自信を持って!頑張ろう!仲間がいるって素晴らしい!」
みたいなことを言われると、今でも十分頑張って生きてるのに、これ以上何をしろというの…私は適度な味方がいればそれでいいのに、不要な仲間を押し付けないで…と嫌悪感でいっぱいになってしまう。
アマノジャクなのだろうけれど、単純にまったく共感出来ないのだ。

「そもそもポップソングというのは大衆の共感認識が重要」的な記事を読んだことがあるけれど、だとするといわゆるポップソングはどうも「押し付けがましく」感じてしまう…
だって夢!希望!を押し付けられるのって、なんだかプロパガンダっぽくない?

Wiki引用
プロパガンダ(羅: propaganda)とは、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為の事である。

何故私達はポジティブになることを促されなければいけないのか。
私はもっとセンシティブだし、私の半分はネガティブでできているし、とはいえ意外とオプティミストだ。
なのに何で他人と「イェーイ!ポジティブになろうよ!」を共有しないといけないのか。


中学生の頃から、気がついたら洋楽ばかり聞いていた。
親の影響もあったとは思うけれど、少なくともカッコつけてというよりは、何言ってるか分からない洋楽の方が、単純なエンタメとして楽しむことができた。

高校生の時には、第一次K-Popブームにのったりもした。
韓国アーティストのガールズクラッシュソングや派手なパフォーマンスはとても痺れたし、韓国語の発音も音が柔らかくて案外耳触りの良い言語だな、と感じていた。
でも彼女達が日本デビューをして、日本語歌詞で曲を歌った時、初めて歌詞の内容を知り、
「ゲッ!何だその歌詞!」と、とにかく拒絶反応が起きてしまった。
とにかく和訳がダサくてダサくてたまらなかったし、音がかっこいいと思って聞いていた曲の歌詞には全くと言って良いほど共感ができなかったのだ。

そんなこんなで大学生になっても私の洋楽好きは変わらなかった。
海外の曲ならどんな国のものも聴き漁ったし、英語よりもさらに恣意的に感じにくい異国の言語であればあるほどワクワクした。
ドイツ語もフランス語も中国語もロシア語も、
私とっては"言語"である前に感情を孕んだ"音"であって、楽器やメロディとほとんど同じ。
音楽はあくまで娯楽であり、音を聞いて自己解釈することが楽しかった。
他者の作った音楽を、勝手に自分のものにすることが心地よかった。
とはいえ邦楽でも好きな曲はいくつもあるし、
昭和の歌謡曲は今でも好きなジャンルだ。
流行りの曲でもお気に入りはもちろんいくつかあるし、日本語の曲でも意味不明な言葉遊びのような曲は特に好きだ。

とにかく私にとって、音楽の歌詞はあまり重要じゃなく、好き勝手な解釈を楽しむ妨げになるので、むしろ邪魔だとすら考えていた。


歌詞の持つ意味やその力について認識したのは、ここ2、3年だった。


シンガーソングライターのbutajiの作品と出会ったのは、社会人一年目の時だった。
会社という新たな社会コミュニティに属すようになり、これまでのように自分の好きな友人達とばかり連むわけにもいかなくて、"馴染まなきゃ馴染まなきゃ"や"この人たちとは仲良くなれないな"といった複雑な感情で頭がいっぱいだった時期だったと思う。

彼の「告白」という、何ともシンプルなタイトルのアルバムのリリース情報を、たまたまTwitterで知り、穏やかそうなルックスと爽やかなアーティスト写真から興味を持った。
そのリリース情報の掲載されたサイトでは、ある曲のMVが公開されていた。

「I LOVE YOU」
なんかベタな曲名だなと思っていたけれど、いざ聞いてみると、自分の想像していた「I LOVE YOU」がいかにステレオタイプで、大勢多数と共有された平均的なものだったのか、と感じるほどに、彼の「I LOVE YOU」は人間が互いに"分かり合えない"ことへの憤りに満ちた曲だった。
愛が一方通行で叶わないことだと認識し、自分の感情が理解されないことに対する憤りのような、冒頭から激しいビートと落ち着きつつも力強いボーカルが強烈で、これまでの私の音楽観にはない感覚。
いや、もしかしたらそういう曲もあったのかもしれないけれど、これまで歌詞を意識して聞いてこなかった分、そんなことを考えたこともなかった。
この一曲だけで、私はすぐにbutaji楽曲の虜になり、アルバムを購入した。

「告白」という作品の構成は
1.I LOVE YOU
2.奇跡
3.秘匿
4.someday
5.花
6.あかね空の彼方
7.抱きしめて
8.予感
9.EYES
の9つの楽曲からなっている。
冒頭から、理解されない憤り、諦め、悟り、願いという感情の推移が感じ取れるような曲順だ。

彼の歌詞は少し独特で、
文章としてはまとまっているというよりは、単語や短文の羅列のようなものが多いように感じる。
綺麗にまとめました!というより、思っていることを吐き出さずにはいられない、というような。
ある種自分を責め立てて回答を出したような印象だ。
世間のバイアスを受けず、あくまで詩的かつ私的な歌詞の世界。
強烈な内面の曝け出し。
このアルバムは、まさにbutajiの自己の「告白」で、音楽という非物質的なものが、実体を持った1人の人間の肉声の主張として変容するような、そんな作品だった。

全ての曲において、人対人の会話の中でも、こんなに感情を自分勝手なまでに曝け出されたことってあるかしら、と思うほどの主張があった。
真意はわからないけれど、
「自分はこんなに寂しいんだ!苦しいんだ!でももう仕方がないんだ!」みたいな、心の声が溢れ出しているようだった。
そしてその感覚や切迫感は、私にとって驚くほど共感できるもので、「きっとうまくいくよ!」とか「明日は幸せになれる」みたいなポジティブ応援ソングでは感じることのできなかった共感を、音楽を通して初めて感じることができた気がした。

人と会話する時も、何でもかんでも正論や他人のことばを借りて、見栄を張って話すような人には心は開けないけれど、腹を割って弱みを見せて話されると「この人は信用できる」と感じるように、
音楽も同じで、すでにありふれた言葉を使って私を諭そうとするような曲より、自分勝手に自己内面の吐露をされる方が"ワカル"と感じられるのかもしれない。
共感できる音楽というのは、自分の言葉で胸の内を正直に明かされるような、独白的なものなのではないか。

音に重きを置いて聞く楽しみ方と、歌詞に重きを置いて聞く楽しみ方では、そもそもの音楽に対する認識が異なるように思う。
音に重きを置いて聞く時、どんな内容であろうと、どこの国の言葉であろうと、その一曲という時間の中では全てが単なる音となる。
その音を聞いて、音の持つ感情を感じ取るような聞き方。
反対に、歌詞に重きを置いて聞く時、音である以前にそれはひとの言葉であり主張であるので、音の娯楽というよりは、詩やエッセーを読むような聞き方になるように感じる。

感情を孕んだ音か。
音を孕んだ感情か。

音を孕んだ感情に対しては、ただ単に音を聞いて自己解釈しながらそこに含まれた感情を感じ取るのではなく、アーティストをスピーカーと捉えて、その自分勝手な独白に耳を澄ますことで、「なるほど、こういうことを考えている人がいる」と認知することが重要なのだと思う。

これまで音楽は自分に寄り添ってくれるエンタメだとばかり思っていたけれど、
どうやら自分の認識を広げてくれるメディアでもあるらしい。
ただ、プロパガンダ的な音楽をエンタメと捉えて流行に乗り続けることの薄っぺらさや、世の中に踊らされている感には、やはりメディアとしての危機感を感じてしまう。

プロパガンダという言葉をメディアで耳にする機会が増えた今、社会の大きな流れだけでなく、身近に囁かれるプロパガンダとどう折り合いをつけるのか。
音楽がわかりやすいプロパガンダを囁き続けることはやめないだろうけれど、それをマジョリティの常識と認めて、そちらに帰属できない自分をマイノリティと思いたくないな。
"共感"を求めるポップソングだからこそ、Mass(大衆)でなく、Individuals(個人)を対象にしてほしいと願っている。

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