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ジョン・F・ドノヴァンの死と生

あるレビューにもあったけど、ドランにしては大衆に歩み寄ったような作品だった。
画面や構図のスケールもアイレベルから超越したようなカットだったり、ハリウッドという舞台も、これまでより華やかで俗っぽいのでそう感じたのかも。
独特のスローカットとBGMの入り方はとてもドラン流。(ドランのBGMの入れ方はMVっぽいなといつも思う)
ただ大衆に寄せたせいか、BGMまでメインストリーム寄りだったので、これはあえて意図的な選曲だったのかな、と解釈してる。
ジョンの母親との言い合いシーンは"たかが世界の終わり"を彷彿とさせた。
ブチギレて壁に穴を開けるシーンは、ジョンの顔の向きが最初と二回目に映った時とで反転していて、これはどういう意図?と気になった。
ラストのジョンの帰省と母親とのバスルームシーンはカットの美しさが印象的。
特に母親役のスーザン・サランドンの、息子の今後を案じたような寂しげな表情は完璧だった。

家族との確執、周囲とのズレをかかえる、ジョンとルパート。互いに接点がないにも関わらず、自分を認めてくれる存在を求めるために文通をしあう。互いに自分を重ねつつも、互いが理想だったんだろうな、とか。
イマジナリーフレンドっぽさもあるけど、片方は一般的な英国の少年、片方は人気絶頂のスターなので、実際の立場や地位(他人あっての立場・地位なので)が、その"秘密の花園"的な(だから秘密の花園ってワードが出てきたのかな、とか)心の平安地帯を荒らしてしまう。

自分という存在を"勝手に"認識され、浅い部分のみで解釈されることに"ムリだ"となるのはよくわかる。
LGBTの人の"自分という存在は"ここ"にあるのに、それでは十分でなくて、存在に対して(自分のセクシャリティはどこへ向いているのか等)説明が必要ということが歯痒い"というインタビューを聞いたことがあるけど、そういった感覚とも近いのかな、と。
儚くも美しいエンターテイメントというよりは、やはりドランの内省的なドキュメンタリーに感じるのはそのせいかもね。

ラストは意見が割れるだろうけど、私は素直に死を選んだのかな、と感じた。
死を選んだというか、ジョンはルパートに自分を重ねていたと思うので、自分のこれからの人生はルパートに託したのかな、と。

色々書いたけど、私の中のドランナンバーワンはトムアットザファームなので、それをまだ越えてないなーとか。

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