【日記】現実の責任

どうしても日記。

昨日の時点でまとめようと思ったが、うまくまとまらなかった。
まだ事件の中身は分からないけど(これから分かるとも限らない)、現時点で思うことを書いておく。「政治信条への恨みではない」と繰り返し言われているな。

他人のよくまとまったツイートをリツイートして逃げたくないと思うし、これから文芸誌などで発表されるであろう作家の論考で自分の気持ちをグニャグニャ形作る前に、今の自分の考えを記しておきたい。

私の場合、小説や論考を読んだ後、「その通りだな……」と思うことは文章をそのまま記憶してしまう。
上手くまとまらない自分の気持ちを少しでも正確に表出できる気がするし、それに、そのまま覚えておいた方が少なくとも道を誤らずにすむという事柄もあるからだ。

でもやっぱり他人の言葉を借りるのは逃げてるなって思う。

自分の考えを話すのには勇気がいる。
多くの場合、他人と合致することはないし、軽いノリで出された話題でも時には本気で反論したくなる。でも、笑ってすませてしまうことがほとんどだ。それが良くないのかもしれない、とも思う。

まとまらないけどいいか。
お気持ちと揶揄する言葉があるのもおかしいが、そういう日記。吐き出させてくれ。後で消すかも。誤解されても怖いし正しく伝わっても怖いから。


政治信条への恨みではない。
なるほどね。
つまり、民主主義のルールにのっとらないで野蛮な暴力によって政治を変えようとした行動ではなく、俺たちの民主主義は大丈夫と言いたいのか。
特定の宗教団体ってどこですか?
メディアはどこも信じられないな。

ていうか、メディアは民主主義を厳しく実践する気があるのか謎。
首相会見では質問に対して意味の分からない答えが返されても再質問しない(できない・させない?)。
問われたことに答えないなんて小学生のテストでもゼロ点だってわかりそうなものだけど。
そんな姿勢で国民の考えを深めることに寄与できると思っているのかな。

テレビは映画とアニメとNHKの夜のニュースしか見ない。好きな番組はあんまりない。
今朝たまたま民放の番組をつけたら「安倍氏の軌跡」なんてものをCM明けにやろうとしてて速攻消した。
美談にするつもりか。
「人の死」。「家族」とか「愛」もそう。
あえていうけど、「死は悲しい」「悼むべき」とかいうボンヤリ蔓延する規範で事実に蓋をしないでほしい。
意図して物語に構成するな。イノセントな同情に乗じて物語化するメディアは悪質だと思う。
政治家に関しては特に、政治家として行った仕事と個人の死は分けて考えるべきだ。石原慎太郎のときもそう。なんで死んだ途端に政治家としての発言や仕事を批判することができなくなるのか。
冷たい? 人の心がない? そんな風に思う人もいるのかもね。でも私は政治をそんな次元で語ってほしくない。自分が住むこの国の将来がかかっているから。

落合陽一とかいう人のツイートを見てゲンナリする。
悪口と批判を同一視して、今回の事件は悪口の末に起きたことだと思っているらしい。
ナメてる。
誹謗中傷、民主主義の過程での批判、元首相の仕事への批判、それらは別のことでしょ。
こんな人の意見を正しいと思う人間がいるのか? 信じがたい。

民主主義ってなんなのといつも思う。
ただの多数決になってない?

最近衝撃的だったのは山際大志郎経済再生担当大臣の街頭演説での発言だ。
「野党の人からくる話は政府は何一つ聞かない」らしいです。
野党議員も国民から選ばれた代表なのに、その人たちの意見を聞かず、最終的に多数決で勝てるからいいやってことか。

あと自民党の議員が参加した「神道政治連盟国会議員懇談会」なる会合で同性愛のことを「同性愛は先天的なものではなく後天的な精神の障害、または依存症」と書く冊子が配られたそうです。
自分たちの立場じゃない方の人間の意見は徹底的に聞かないのか。

辺野古埋め立ての賛否を聞いた沖縄県民投票で圧倒的に反対だった意見を無視しているような政権だもんな。元首相は玉城知事から県民投票の結果を手渡される瞬間を証拠写真のように収められている。

私は沖縄に住んだことがない。たぶん怒りは共有できないし、できるなんていったらおかしいし、ただ自分にできることは選挙に行って少しでも賛成できる方に入れるだけだ。
最近、上間陽子「海をあげる」や伊波園子「ひめゆりの沖縄戦」を読んだ。
本当に直視したくない現実だけど、自分は差別をしている側に存在している。今私はのうのうと生きてる。「海をあげる」ではその痛みが刺さった。基地負担はあまりにも強引すぎる。

…沖縄に基地を押しつけているのは誰なのか。三人の米兵に強姦された女の子に詫びなくてはならない加害者のひとりは誰なのか。
 沖縄の怒りに癒され、自分の生活圏を見返すことなく言葉を発すること自体が、日本と沖縄の関係をあらわしていると私は彼に言うべきだった。

上間陽子「海をあげる」234頁

ここから浮かび上がってくるのは当事者性の問題だと思う。
つまり、自分に責任があることを認めないといけない。
ただの一般人である私がである。
だって自分たちが選んだ代表がしていることだから。

戦争は無関心な人々の手によってだけ殺戮を行うのではない。
同情を寄せながら、実際には何もしない人々の手によっても
また殺戮を行うのだ。

著・ハルィーナ・クルーク 訳・吉野充義「戦争反対(ノー・ウォー)」、2022年すばる7月号104頁

刺さる。
逃げられない罪の意識、当事者としての意識が生まれる。
だからせめて、現時点での意見表明をささやかながらこのnoteでしておくことにした。

少数者に対する扱いが、その人の全てを表している。
そして、いまの政権を選んだのは私たちだ。民主主義をないがしろにする現状を認めてきた責任は誰にある? 私だし、私たちだ。

この国の政治はとるにたらない一般人が変えていかなければならない。
この国のおかしいところを、ぼんやりした同調圧力に負けないで、嫌と思われるくらいにねちっこく削り取らなければならない。(削り取る、というのは武田砂鉄「マチズモを削り取れ」という本でとてもいいなと思ったので覚えている。)

まずは選挙に行こう。
そういえば、私の親戚でお祝い事があっておめでとうございますなんて言ってたんだけど、同じタイミングでその人が選挙に行かない人だと聞いて頭の中が真っ白になりました。
こんな身近にいるんだと思った。

でも結局、人が大勢いないと政治は変わらない。だから自分が選挙に行ったって意味ないじゃんなんて思う向きもあるかもしれない。たしかにね。
本当だったら多数じゃない方の意見をちゃんと聞いて、それを反映して法律にするというのが民主主義の筋だと思うんだけど、残念ながら今の政権はそうじゃない。
そんな社会だから、そんな政治を認めてきちゃったから、少数者の意見を大勢に認めさせなくちゃ何も変えられなくなっている。
だからこそ選挙に行こう。ちゃんと参加しよう。
とるにたらない小さい自分、究極の少数者がいるってことを示さなければ。

この国が嫌な方向に流れているって思うことが多い。
憲法改正をはじめとして「国のために個人を犠牲にする」論理がまかり通るような社会になっていくのではないか、大戦以前のようになってしまうのではないか。
ていうか、自民党の憲法改正草案ひどいので見てほしい。
真剣にこれになるんだとしたら本当におかしい。敗戦という現実を見ていないとしか思えない。

正義のありかはどこにある。
この世にはいろんな考えがあるけれど、正しい選択は存在するのか?

たとえば侵略戦争など、問題を抽出するなら多くの人は否と即答するのだろう。
いろいろな考えがあることを認めたうえで、この答えが誤った選択だと言う人はいないだろう。


国際社会がアパルトヘイト政権と距離を置く今、日本の企業や団体、芸術家や作家にも十分にその動向を感じ取っていただきたい。そして後々恥じることのない、歴史的に正しい選択をとってほしい。

マリアム・タマリ「パレスチナの朝176 美しい世界へ」2021年すばる12月号 199頁

もちろん様々な考え方がある。認めるわけにはいかないけど「同性愛は依存症」とかいう考えだって存在している。
でもこれが間違っているって堂々と言おう。正々堂々唾棄してやる。
歴史的に正しい選択というのは、やはり存在すると私も思う。
正しさは何かということを追求しなければ誤った選択をしてしまう。

正しさについては、自分はロールズの無知のヴェールという考え方が一番しっくりきている。
どんな立場でどんな人間に生まれるかは分からない。
潜在的に他者であり、自分でもある。
それなら、公平なルールにするのが一番(自分にとって)最適だ。

この国にあるのは数の暴力だと思う。
少数の意見を聞かない暴力ということだ。

今は「少数者」と呼ばれる(これもまたカテゴライズ。うんざりする。)人たちが自ら行動を起こして声をあげるという勇気がいる手段で活動している。
少数者と呼ばれる人たちで団結して戦わなければ声すら聞いてもらえないのが現状だ。(おかしい。)

この戦いの先にあるのは個人の時代だと私は思う。
いつ訪れるか分からないが、人は一人一人違うのだ。
そのすべてを大切にできるかどうか。
すべて自分になり得たかもしれないと思って法律、ルールを作って社会を変えていけるかどうか。

私なりの正しさの考えに従うと、究極こういうことだ。

元首相は他人の、自分の立場とは違う人を大切にする行動をしていたかな。
モリカケ問題を忘れない。

今はここまで。
正直もっと言いたいことはたくさんあるけれど、なんかまとまってしまった。
自分の言葉で今の気持ちを書きたいと思ったけど結局引用ばかりになってしまったな。

今回の事件は暴力行為でそれは当然認められない。
でも動機や経緯がしっかり分からない以上、今はまだ意見がまとまらない。
ただ、元首相が後ろから銃で撃たれたという事実が判明した瞬間は、民主主義が形骸化している大きな流れの中で決して矛盾しないし整合性がとれると感じた。
そして、物語化される事実、批判が封じられる死の同調圧力、様々な問題が永遠に追及できなくなること、SNSにあふれる賛成できない言葉たちと応酬。
全てに対する悪影響を考えて暗澹たる気持ちになった。

昨日はもうずっと眠っていたかった。
でも、起きた。諦めたくなかった。
自分はまだ絶望するほど戦っていない。
果たせてない責任がある。

とにかく考え続けていく。

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