マチオモイ帖のこと。

3月15日木曜日から「myhometown わたしのマチオモイ帖」がメビック扇町で始まっている。まちおこしはできなくても、まちおもいはできる。しげい帖という一冊の本から、全国へ広がった、この取り組み。私も、今住んでいるまち谷町六丁目周辺の「からほり帖」を作り始めて4年目になる。

1年目は「暮らしはじめの小さな記憶」
京町堀のマンションの隣人トラブルから、ほうほうのていで飛び出して、
流れ着いたこの町で、寒い冬の日の心もとなさや優しさや、小さなゆらぎをどうか忘れずにとめおきたくて、初めて書いた。出来事は、覚えていたとしても、足元の小さな揺らぎは、人はすぐに忘れてしまうから。そこから「マチオモイ帖」は、わたしとまちの「定点観測」のものさしのようなリトマス紙のような存在だ。

2年目は「ひとめぐりした季節の中で」
地蔵盆やお稲荷さんの風景の中にある小さな祈りや、近所の友人とのささやかな時間を見つめた。

3年目は「いま、そこにあるということ」
前にそこに住んでいた人のことや、いかなかったお祭り。
一つのお店がなくなるということ。時間とともに変わっていく何かを書いた。

4年目の今年は「病める日もすこやかなる日も」
病気を経験した時間の中で、弱い体を携えて、見つめるわたしとまちのこと。その境目は分けがたく、かかわりの中に今日のわたしを探した。

4年たってみて、ふと「マチオモイ帖が絶対的1である」
という、当たり前なことに思いいたった。
それにふれていても、それが何か、すぐに気付かないこともあるのだな。

まちは重層的な存在で、いわゆる「住みたいまちランキング」のような、外部的評価に紐づいた量的世界としてのまちもあれば、「マチオモイ帖」で語られるそれは、対局的な質の世界にある。全国から数多くのマチオモイ帖が集まるけれど、それらの集合体はいつだって何百冊ではなく、圧倒的1の世界の集合だ。

だから、会場ですべてを手に取ることはできないけれど、
ウェブではなく、「マチオモイ帖」というかたちで、ひとつひとつが確かに
その場に集まるということに意味があるような気がする。

my home town わたしのマチオモイ帖
2018年3月15日(木)〜3月29日(木)
メビック扇町
http://machiomoi.net/exhibition_2018_osaka/

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