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実はたくましいいわさきちひろ

今の私の住まいは「いわさきちひろ美術館」の徒歩圏内です。

近くにあると「いつでも行けるやー」と安心してしまってなかなか足を運ばなかったんですね。
しかも超がつくほど有名な「いわさきちひろ」さん。数多くの複製画を目にしてきていますし、「ま、いっか」と、大変失礼なことに、結構舐めてかかっていたんです。

ふんわりして見える画風から、「あんまりふわふわして甘い感じは趣味じゃないしなぁ」なんて、一層失礼なことさえも思っておりました。

十数年前に2年間ぐらいかけて改装工事が入ってずっと休館していたのが、工事が済んで開館したのでやっと重い腰を上げて見に行きました。

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生まれて初めて生で見た「いわさきちひろ」さんの絵は、すごいシッカリしていました。生で見て印象が変わる画家ナンバーワンと言ってもいいと思います。

色使いや絵の具のぼかし具合とかで確かに柔らかさをたたえてはいるんですが、画力がすごい。しっかりした基礎に支えられたものすごく骨太さを感じる作品なのです。

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赤ちゃんの絵も、生で見ると赤ちゃんの重さを感じます。

この骨太さの秘密は何!?と思って壁に貼られていたちひろさんの生涯についての年表を見てなるほど、と思いました。


ちひろはその昔はとてもとても珍しかった共働き家庭に三人兄弟の長女として生まれ、女学校に通いながら絵を習い、20歳で婿養子を迎えて結婚します。ちひろの意に沿っていない結婚だったようです。

結婚によってご主人の赴任先の大連に渡りますが、2年後にご主人が自殺。ちひろは日本に戻ります。

女子義勇隊に入隊したちひろは、書道を教えるため旧満州へ渡りますが、戦局の悪化によりすぐ帰国。その後程なく空襲で家を焼かれてしまいます。

お母様の実家である長野県松本市に疎開し終戦を迎えたちひろは、その地で日本共産党に入党し、単身で上京、日本共産党 宣伝部・芸術学校に入ります。

30歳近くになり日本民主主義文化連盟(文連)の依頼により紙芝居『お母さんの話』を描き、画家として立つことを決意されたそうです。

31歳の時に、日本共産党の活動を通じて知り合った年下のご主人と結婚します。ほどなくご長男を授かりますが、ご主人が弁護士を目指して猛勉強なさっていたので、家計はちひろの絵筆で支えねばならず、ご長男は長野県松川村のご両親のところに預けられたそうです。

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その後、今は美術館となった練馬区下石神井に家を建て、親子三人で暮らし始めます。

新しい絵本を構想したり、激化するベトナム戦争に巻き込まれる子供たちを思い『戦火のなかの子どもたち』を描きます。

その後、54歳の若さで原発性肝ガンのため亡くなります。

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女性の社会進出がとても珍しかった時代に、政治の活動をされていたり、ご家族を自分の絵筆で支えていたり、骨太な生き方をされた「いわさきちひろ」さん。

優しく見えながら骨太な画風にも生き方にも憧れます。

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