24.0

やれ師走。師でさえ走るわけだから、わたしなんて全速力で走る、走る。仕事を無理やり昨日の日付の中に押しこめて、悪筆、常よりさらにふてぶてしく賀状をしたためる。1年ぶりに紙片の上で(或いはもうこの10年以上も)顔を合わせていない彼や彼女と再会し、近況を綴ったり、気にかけたり。他の月々と変わらず、1年の12分の1にすぎない期間でありながら、行く末来し方について考え、身の回りをあらため、しまいにはお重を引っ張り出して煮炊きまで繰り広げる。もはやこのご時世、取捨選択することもできよう営みではあるけれど、なんとなく手をつけずにはいられないのは惰性だと言われるだろうか。習慣にのっかることはよくも悪くも、わたしにとっては安らかなことのひとつ。

習慣といえば、過ぎゆく今年は身体を鍛えることをひとつ、新たな日々のならわしとしつつある。単に朝起きて、仕事にかかる前にジムに足を運ぶというありていの取り組みに過ぎないのだけれど、学生時代はおおよそ運動とはほど遠い人間だった(読みたい本や聴きたい音楽が山のようにあった、といえばさぞかし文化的な人間のよう。実際は単なるものぐさだった)から、個人的にはこのならわしがもう半年近く続いていることに驚いてもいる。日常の活動の中の心拍数が落ち、身体の肉質が(ごくわずかに)変化し、あともうワンマイル(これは単なる距離の話のみならず、何か物事をなす上での最後の追い込み)がきくようになり。人生、何に開眼するかまだまだわからない。

そんなわけで、わたしが走る理由は決して師走だけのせいにあらず、でした。走ることで見える景色はなかなか新鮮で、来る年にはより長く快適に走れるよう新しいシューズを見繕ってもいいかもしれないなどと思いながら、今日はぼんやりと子どもの靴選びに付き合う。ティーンエイジャーが近くなると、ずいぶんと様々なこだわりも一端の見栄も生まれるものだなと。親の選ぶものを、何の留保もなく身につけていたのはいつまでだったか。さらに成長を感じたのは、選んだ靴を買うに際しての娘の足の大きさ。いつの間にわたしと同じサイズになったんだっけ?と。背の高さはまだまだ追い越される気配はないものの、日頃の食事量はとうに彼女に抜かされている。

夕方の台所に立ちながら、生まれたての彼女の、身体のほかの部分と違わず柔らかで、なめらかな足の裏を思い出す。まだ土を踏んでいない、守られるべき存在であることの証みたいなふたつの足。いつまでもベルベットに包んであげられたら。そんな心とは裏腹に、いまやわたしの知らないところで、灼熱の砂浜も、皮膚に食い込む岩肌も、時に足先の感覚を失うような氷上さえも走り抜けていこうとしているのかも。彼女の先に待ち受ける世界があまりに広くて、華奢なピンヒールよりもかっちりしたヒールの方が、とついつい靴選びのお節介を焼いてしまいそうな自分を想像の中で牽制する。片手鍋からのぼるあたたかな湯気越しに、もうじき干支がふた周りする彼女を眺めながら。
#似非エッセイ

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