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自分の気持ちと生きること

神さまは意地悪だ。

どうしてこの世界は、思い通りにならないことが多いんだろう。

ふと、疲れた頭でそう思う。

書いていて、なんだかとても自分本位の人間のわがままみたいだけれど、自分の人生を諦めたくない気持ちが、私はとても強いのだと思う。

それは一定の他者から見たらわがままで、利己的で、自我が強い扱いづらい人間なのかもしれない。実際に、あなたは自我が強い、もっと抑えないと組織では働けないと言われた。
けれどこの自我がなければ、私は論文を書いてはいない。自分が抱えてきた生きづらさや、インタビューを通しての出会いを言語化してはいない、と、はっきりと思っている。

文章を書いたり、語学をやったり、そして研究が、したいのだと今日はっきりとわかった。自分は言葉を生み出したいのだとわかった。それはここで何度も書いてきた。堂々めぐりだ。
でもやり方がわからない。生きるにはお金が必要で、お金を稼ぎつつ好きなことをやれるのかわからない。やり方はたくさんあるし、実際にやっている人もいる。調べて挑戦してみたらいいのに、と自分でも思う。けれど、こわい。才能のない自分と向き合うその果てのなさがいちばんこわい。やってみて失敗して、それでも自分を生かすために、何かやれるのか、こわい。生き続けられるのか、こわい。なら今の場所でずっと安住すればいい。でも安住したら?きっと大きな後悔に苛まれ、どうしようもない気持ちになって、絶望するだろう。

神さまは意地悪だ。いまの気持ちをぴたりと言葉にできない。
人と話せば、本を読めば、これまでの日本を出たさまざまな旅、留学先でのことを思い出せば、大きな自我がまた、芽生えてしまう。それを抑えようと
ふつうに、恵まれた、安定した場所で働けば、私の感情は喜びを失い、労働に適した1人の人間と、わずかな褒美としての金銭が生まれる。残酷に思える。どうしたらいいか誰か教えてほしい。でも自分でどうにかするしかないって、知ってる。自分のなかでがんじがらめになってるって、知ってる。私との対話は、私の頭の中での大きな会議は、いったいいつまで続くのだろう。


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