空想物語と現実

思い返してみれば、幼い頃に読んだ物語には、英国のものが多かった。児童文学やファンタジーといったジャンルの草分けが英国なのだから、当然といえば当然かもしれない。

空想物語をただ楽しむことから脱さなければならない年齢になった時、その読書体験を現実の中に結びつけることができずに、持て余すようになった。多読家の姉妹が、うまくそれを「夢物語」に消化し、一時の現実逃避の手段として、非常に現実的に楽しむようになっていくのを横目に見ながら、私にはどうもそれが上手くできなかった。

その後、英国に暮らすことになったが、その間は、かつて読んだ物語が、たとえ荒唐無稽なファンタジーであっても、どこかしら現実に結びついていた。遠い日本の地で読んでいた頃には存在しない夢の中の世界に過ぎなかったものが、どこかで現実と紐づいた空想となり、幼い頃の読書体験が応用が可能な擬似体験と変わった。振り返ればそのように思う。

帰国してしばらく経つが、時折読む英国の物語を「夢物語」ではなく、「現実」と認識するようになって久しい。幼い頃に親しみ、若い頃に折り合いをつけることができなくなった空想物語は、私の中ではこういうふうに現実になったか、とふと気づく。一時の非現実を楽しみながら別の現実を生きるのではなく、夢物語を現実として生きるという方法で折り合いをつけたのかと思う。というよりも、そもそも無意識に夢物語の背後にある現実を探し当てようとした結果なのかもしれない。

言葉だけで綴られた実際には存在しない世界をファンタジーと呼ぶ。美しく懐かしく消えることない永遠の王国。絵画と同じであり、複雑化した人の精神がたどり着ける唯一の楽園。

「それ」を現実に内包することができる「英国」が、ある意味、文化的に「強く」なったのは必然のことなのかもしれないと思う。

同時に、「夢物語」を夢物語と認識し、まったく別の現実を平然と生きることができる日本の精神のあり方も、かなり強かであると今更ながら思いもする。

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