1日目

明け方まで麻雀をして、朝まで語り合って、仕事をサボった。

久しぶりに自慰行為をした。

飢餓状態に陥った時、そこにある「無」は客観視されたものではなくて、たぶん「認知ができなくなっている」である。

従姉妹は起きてから寝るまで絵を描き続けることができる妖怪であるが、自分の心にある道徳観によって苦しめられているようだった。人生を楽しむことが大切だが、生きていることは楽しみを阻害する。絵を描き続けて生きていくには絵を描き続けて死ぬか絵を描かないことをするしかない。興味のないことをできないのは障害とされるようだが、それがなければ興味のあることに没頭できる才能があるとは言えないような気がする。

俺は自分の外からのエネルギーを使って闘えるが、彼らは自分の内からのエネルギーを燃やし続けることができる。そのどちらに悟りがあるのかわからない。行き着く先は同じかもしれない。

俺は、他人に無関心で主観的感情も認めることができず、他者に感情をぶつけることができない。従姉妹は、他者に感情をぶつけないことができないらしい。どちらも困っている。怒るとは何か?主観を認めなければ、そこに信仰を持つことができない。信念を持つことができない。

好きとは何か理解することは難しい。そこにはルールを明確に自分で決めるという裏技があるらしい。「嫌いの条件」とかを設ければ、俯瞰で嫌いを見つめることができる。私はいつ怒っているのか、私が理性を失っているというのはどんな状態のことを指すのか、明確に自分で決めてしまうというのは、裏技的な解脱だな。

でも、好きなものは好きだと仮定してしまって、嫌いなものを調べるほうが楽だろう。俺は嫌いなものがない病気なのである。従姉妹は嫌いなものしかない病気かも?

今日は何かに気づいたか?

・オリーブオイルが好きかもしれない。
・ツイッター以外にも情報はそこら中にある。すべてのノイズを空っぽにする時間を設けるのは大事だ。
・俺にとって「夜更かし」「ネカフェ」「麻雀」はゾーンに入る準備かもしれない。CBDもそれを加速する。
・家族を馬鹿にされても家族が哀しむとしても何もマイナスの感情が浮かばない。でも不特定多数の精神疾患を否定するのには腹が立った。
・相手を不快にするため以外の合理性のない発言に腹が立つ。純粋な悪意が嫌いかもしれない。
・麻雀を中断することが苦手だ。次の日が仕事であったとしても、自分が何かを選択することができない。
(追記)
・何も賭けていない麻雀には没頭できない
・「めんどくさいから嫌だ」という感覚がある
・「めんどくさくないけど嫌」なことがどのくらいあるかが重要そう

何故エゴを通せないのか?自分に自信がないということではないかと従姉妹に見透かされた。エゴとは主観的な事実であり、俺のエゴは主観的にならないことであり、つまりエゴなど持ちようができない。自分が苦しむことや不幸になることに抵抗がない。

幸せになれないとわかっていて幸せを目指し続けるのか、幸せになれないとわかって諦めて幸せを目指し続けるのか、そこが違いのようだ。

今日の文章は、あまり直感的に書けなかった。もっと諦めたい。

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資本主義と司法主義の本質

がんばること

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