20200614

毎日、インプット(観たり読んだりしたもの)とアウトプット(考えたこと)を記録していきます。

今週の目標

6月中のタスクを見据えて着実に成果を出す。
→ 結果的には達成できていないが気持ち的には満足しているのでよい。このペースでいけたらよい。

来週の目標


日記

10時半頃起きた。すっかり意識するのを忘れていたが、なんとなく買った目覚まし用ライトが毎日10時に光りまくってくれるので意外とそれが効いて早起きしているのかもしれない。いろいろ事務作業とか、研究打ち合わせのまとめとか、学会参加のまとめとかを細々とやっていた。Slackで組織の今後のはたらきについてとか考えた。なんか、俺はいつも「俺はどのように生きるべきなのか」みたいな取り留めのないテーマを悩んでいきている気がする。「俺は何にリソースを割くべきか」みたいな机上の空論にリソースを割くことだけを意識して生きてきた。次点は深夜のオカズ探しくらいで、さて、どんな妖怪性が発現していくのか楽しみだな。

インプット

毎日、noteとかマガジンとか気が向いたら読んでいるけれど、今日トレンドになっていて、読んだ以下の記事は共有したい。


アウトプット

俺はおそらく、人生の大半を「俺は何をやっているんだ…?」に費やしている。その次に「この人は何を言っているんだ…?」とかだろうか、個人的欲求が希薄である以上、他者から(間接的にであったとしても)委ねられた「問い」に答えを出すことに躍起になってしまう。

「俺は何をやっているんだ…?」「俺は何をやるべきなんだ…?」と考えても、そこには「絶対に」答えなどない。つまり、そこには常に、永遠に延々と無駄でメタ的で論理的で非合理的で矛盾を孕んだ思考がそこには張り詰められている。

上に共有した記事では、人間が優れている能力は「感覚的な思考処理」であると言及されている。一部、引用する。

人間のアーキテクチャは感覚的思考によって動作し、その処理能力はとても高い。そのため、人間は、努力すれば、感覚的思考の機能の上に、普通のコンピュータが行っているような論理的処理を行う環境を仮想的にエミュレーションし、その上で色々な論理的プログラムを実行することができる。例えば、電卓を使用しなくても数字の暗算ができたり、短いプログラムであれば、コンピュータに入力しなくても、頭の中で実行することができる。

だが、人間の感覚的思考機能の上でエミュレーションされた論理的処理機能は、所詮エミュレータ上のようなものなので、実マシン (人間本体) と比較すると、とても処理が遅い。オーバーヘッドが大きすぎるのである。あらゆる方式の処理を瞬時に同時実行することができる人間の頭脳がせっかくあるのに、論理的処理用の仮想環境を脳の中で構築し、その上で物事を考えるから、効率が悪くなる。

これが、普通のソフトウェア開発者が 1 ヶ月にわずか数百行 〜 3,000 行程度しかプログラムを書くことができないという原因になっている。人間の中に構築することができる仮想の論理的処理エミュレータは、性能が低すぎるのである。

そこで、論理的思考を極力排除し、人間の本来の得意な思考方法である、感覚的思考機能を用いて、色々な作業を行うことにすれば、とても効率的になる。
ここで、多くの人は、この人間が持っている超高性能な「感覚的思考機能」は、例えば作曲や小説の執筆、絵画の制作などの芸術的な創作作業でのみ使用することができ、プログラミングとか設計とか計算とかそういう類の論理的な作業では使用することができないと誤解してしまっている。論理的に考えると、確かに論理的な作業は、論理的な基盤の上でしか行うことはできない。

だが、僕は、プログラミングや、その他の論理的な作業についても、超高性能な「感覚的思考機能」のほうを直接用いることにより、わざわざ脳内論理回路エミュレータを用いなくても、効率良く処理できるということを知っているので、そっちを使っているというだけである。

俺はこれを読んでひどく衝撃を受け、感動した。

ちなみにこの記事が書かれているのは2007年である。

近年流行している人工知能の技術の一つである「深層学習」は、人間のこのような「感覚的処理」を模倣しようとして実現されている。実際に、ある特定の分野では驚異的な性能を発揮しており、社会的に様々な分野で応用されている。そのため、「これから先は人工知能に単純作業が奪われる。」「人間は論理的思考を高めていかなければならない。」なんて言われている。

しかし。この人が言うように、元来の人間の優れている点は「感覚的思考」なのである。

ここで、一旦話を整理しておきたい。

「人工知能」と「機械」は似て非なる言葉だ。それらは、共通する部分もあれど、完全には一致しない。人工的な知能であるが物理的な機械を有さないものもある(ソフトではあるが、ロボットではないケースがある)し、逆に機械であるが知能を有さないものもある(ロボットであるが、知能はなく定められたルールでだけ動くケースがある)

だから、これらを混同して「単純作業の仕事が人工知能に取られる」というのはおかしい。単純作業なんて既にロボットに取って代わられているし、単純作業以外の仕事だって人工知能に取られる。それでは、論理的思考力を身に付けるべきなのだろうか?

俺はこれに、ある意味で賛成していた。しかし、上記の記事を読んで改めて考えると、そうでもない気がする。論理的な思考が必要な作業のほうが、機械が全部やってくれるのかもしれない。

人間が優れているのは、論理的な思考を直感的に行うこととか、論理的じゃない思考を直感的に行うこととか、妖怪的なことができる、ってことだ。

数学者も、きわめて論理的な仕事をしているように思える、しかしその実体は、非論理的な直感的推論の上に成り立っている。推測で「おそらく論理的に上手く行けるんじゃないか?」という目星を付ける、これのどこが論理的なのだろうか?言うなれば、直感的に論理を扱っているのだ、これは極めて人間的才能だ。

だから、結局のところ人間は、非言語的な直感力を極めて行くことが正しいのかもしれない。とにかくとにかく何でも良い。ただ自我のままに何かを尖らせていればそれで良いのかもしれない。

少なくとも俺にとっては論理的思考を直感的に扱えるようになるのが一つの道なのかもしれない。これも矛盾だ。


あと、この人が具体的に集中するための方法として挙げていた、何か別のタスクを仮想的に常に自分の頭の中に置いておくというのがすごかった。ゾーンを自分で作り出しているのだろう。

俺自身、研究に一番集中している時に「俺なんて何の才能もないや」「俺に何の生きる価値があるんだよ」って言いながらホワイトボードでひたすら計算をしていたことがあり、ゾーンに入っている感じがした。「俺は何をやっているんだ…?」「俺は何をやるべきなんだ…?」というのは、常に俺の心と頭を支配するタスクなのかもしれない。一定のメモリ使用量でキープできるようにしたい。

あと、綺麗なものを一日に一つ見つけるというソフトも適当なメモリで走らせておきたいと最近思ってる。幸せなんかよりも美しさを探すほうが俺には適している。


ここから先は

1,729字
この記事のみ ¥ 100
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

ちょっと喜ぶ可能性があると思われます