6日目

深い意味もなく、ただ深く潜ってみようと思っている。

昨日は2時間半くらいnoteを書いていたようだ。これが俺にとっての座禅でなくてなんなのだろうか。

先に、いくつか記したいこと、気付きなどを書いておく。

・誰かに迷惑をかけられることが嫌いだ。故意的であれどそうでなくとも腹立たしい。俺が一番怒りを露わにできるところかもしれない。自分の感情、動物性のようなものを見つけた。他者への配慮や尊重のなさが単純な悪意あるいは無自覚の裏切り、個人の人格の非整合性などに現れた時、「は?」と思ってしまう。なんでそんなことができるんだ?意味がわからない。ということなんだろう。「ウケる」な。俺はなぜそこに怒りを感じるのか?蔑む行為が許せない清らかな心の持ち主だからなのか?それとも論理的非整合性への拒絶なのか?「イミわかんなーい!」「ひどーい!」ってことか?つまり…これって俺の中の道徳……?自分の中の道徳観をもう少し見守ってみよう。
・焼かなければいけない焼き肉が嫌いだ。焼くとか焼かないとかの意識に食欲を憚られてしまう。食欲と理性の断絶は幼少の頃からあったような気がする。ただ、食欲自体に美しさは感じていないので、それでよい。ただ美味しいと感じることは素敵だし、お腹が空いたから肉を食って美味しいと感じることも素敵だ。美味しいことだけがそこにあって、食欲だとか食べたいだとか好みだとか、そういったものはマヤカシだな。禅マインドなのか知らないが、最近は余計なものが削ぎ落とされているような感覚がある。
・裏切りは期待から生まれるのだ。俺はいつも何かに期待して裏切られているのか。情けない。必要なのは期待じゃなくて信頼だし、信頼なんかより有りのままの現実を見るべきだ。現実本位としか言ってねえ。現実本位以外のことは、すべて妄想ごっこだ。期待ごっこ、信頼ごっこを楽しもう。競馬と同じだ。没頭と競馬しか人生にはない。

自分の中の妖怪度が上がっていく自覚がある。つまり、没頭したいという気持ちや自分の中の欲求の解像度が上がっていると言うことだと思う。あるいは、欲求や目の前の現実に向き合うという側面が強くなっていると感じる。人間であることはフィクションを好んで社会を上手くやるということだが、自分が自分として生きるために社会を必要としないのであれば、自分の中の人間性を削ぎ落とすことは不可能ではない。もちろん、他者との繋がりの中で息をしているのも社会的な生き物としては自然な欲求なのかもしれないが、俺はそこに「道徳」がなかった。動物として生きていくことと社会の中で生きていくことの、どちらにも謎の欲求を介在させることはできると思う。さて、俺はどこを向いているのか。自分が生きる意義を与えるために他者との関わりを俺は求めていない。生き延びるためには他者との関わりが必要かもしれないけど、って感じか。

今日は割と論理的な文章を書いてしまった気がする。この後に論理性を捨てると思えばそれもアリか。水風呂とサウナだ。

CBDグミを食って風呂出たら座禅をやる

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湯船の中で7分くらい座禅してしまった。途中までは耐えられていた鼻の痒さに身体が勝手に動いて飛び上がってしまたのでそのまま出た。頭が異様にスッキリしていて、そのまま何も考えずに(あるいは何も考えないようにし)寝てしまった。

寝てしまったというのも少し語弊があって、横になって座禅をしようとしていたら寝てしまった。

そんで起きたので追記してる。タイトルも「座禅」というタイトルから変えた。

起き上がる瞬間、寝ぼけていたのもあったけど頭の中にゾーンが見えた感じがして、脳内が自動で計算結果を吐き出してくれる瞬間を直感した。明晰夢のような感じに近いかもしれない。ゾーンと明晰夢の関係性が気になるところ。

直感の中で揺らいでいたら、急に坐骨神経痛と腹痛が来て現実に叩き起こされてしまった。「これは痛みだなあ」と思って痛みを眺めていた。

まあ、そういう生活を送っていくんだろうという感じだ。机の上とか眺めていたら時間が経ってしまっていた。良い姿勢の取り方が未だにわからずにいる。後天的な俺の本能が、先天的な俺の身体感覚を阻害している。やめろ、真っ直ぐに歩くってどういうことだよ!教えてくれ!この指の痛みが無理な姿勢から来るものなのか、長時間のタイピングのせいなのか、もはや知ることはできない。俺の右手のホームポジションが崩れていくような感覚だけがある。そもそもホームポジションなんて守っていたのか?直感の形成と崩壊の連続だ。意識などそこにあるのだろうか。

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自分が自分の感情などに素直になることに合わせて、何か身の回りの見え方が変わってきているような感じがする。世間に対する漠然とした嫌気というか。昔忘れてしまった気怠さが蘇ってくるかのような感覚がある。俺はもっと世の中を嫌っていたかもしれない。どうでもよくないことをどうでもよくないと認識することで、どうでもよいこととの輪郭が明確になる。結果的に、人を鼻で嗤ってしまう。ここに性格の良さが滲み出ている。もっと他人に厳しく自分に優しくいるべきなのだ。俺が他人からの誘いを断れずにフラフラとしていることの実態がそこにはある。もっと自分を鍛えてくればよかったのだが、どうしてこうなってしまったのだろうか。今はあまり何も考えずにだらだらと直感的に文章を吐き出している。

なにもかもどうでもいいとハッキリ思ってしまう瞬間がポツリポツリと湧き上がる。たぶんその瞬間に、なにもかもどうでもいいなんて思ってるのは嘘っぱちだと分かってはいるんだが、その瞬間に何かエネルギーが湧き上がるのを感じる。

そうやって湧き出てきたものを掴めば、もっと衝動的に動けるような気がする。最近の俺は何によって突き動かされている?今週は夜更かしを激しくやっていた。精神が揺れている。安定していない。

今日のこのスッキリとした夜長で、自分の精神を洗いたい。研ぎ澄ます。

真円に近いと思っていた俺の核が実はそうでなかったことに気がついて、大きく凹んで、また真円に近づいていると錯覚するために、今日の夜中は清く生きよう。静かな感じがする。

何も考えたくない。何も考えずに「やらなきゃいけない」をやってみようか。今のこのボーッとした感覚のまま、「やらなきゃいけない」と思っている心のワダカマリに静かに向き合ってみるか。

40分後にまた会いましょう。

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1時間半くらい経った…。結構集中していた…。

頭を使うという感覚が久しぶりで、あれ?こんな感じだったんだ、と思った。

本当に久しぶりかも。難しくて、一見して答えがわからない、というかそもそも問題もなんだったっけ?というような状況に久しぶりに陥った。そもそもそんなに難しい問題というわけではないのだけれど、「あれ?熟考するってこれか?」となった。かなり熟考を俯瞰で見れた感じがする。

というか、普通に集中ができた。人間の集中力の限界は15分とか嘘だ。1時間は集中できた。でも大事なことはその時間をちゃんと作ることだ。集中する時間と環境を作れなかったら15分だって集中できないのだから。

ある意味、ずいぶんと長い間、スランプかバカンスかをやっていた。俺は今まで俺にとっての「仕事」をサボっていたんだということがよくわかった。忙しなさは人を狂わせる。狂うことは幸せだ。だけど、自分は忙しなさの中だけに留まっていることには耐えられない。かと言って、静寂の中にいることにも耐えられない。だからちゃんとこの感覚を見つめて、それらを行き来できるように、コントロールできるように発達しなければならない。

起きて、noteを書いて、作業をして、もう3時になっている。早いようで、ゆっくりで、何もしていないようで充実している。

この感覚を取り逃すとまたぼくは何もできなくなってベッドの上でうずくまる生活に戻ってしまうだろう。

まだ少しふわふわしている自分がいるが、今はもう少しこの感覚を大事に見守って、いずれはコントロールできるようにならなければいけないと思う。

さもなくば俺に未来はない。

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