プロ奢サロンにおける<トーテム>とは何か?「問いを立てる部屋」についての儀礼論的な考察から見るプロ奢サロン

タイトル:プロ奢サロンにおける<トーテム>とは何か?「問いを立てる部屋」についての儀礼論的な考察から見るプロ奢サロン
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このnoteはプロ奢ラレヤーの有料マガジン購読者限定のオンラインサロン内の #儀礼研究所 で行われている儀礼論の講義のレポートである。

名前:はくし @mzfzrd
日付:2020/07/09

概要

 本稿では、プロ奢サロン内において突発的に盛り上がりを見せたチャンネルである「問いを立てる部屋」で行われる「問いを立てる」という行為が儀礼であることを確認し、このような儀礼が一般的な社会集団において信仰心や宗教観がない場合にも自然に発生し得ることの例として示すものである。また、プロ奢サロン内における「問いを立てる部屋」の意義についても考察し、今回の儀礼が結果的に<わたしたち>をどう形成してゆくのか、サロン参加者の一私見を述べるものである。

背景

 「問いを立てる部屋」は、7月2日にサロン内に突如として現れたチャンネルであり、参加者が各自で思いついた問いを吐き出していくだけのチャンネルである。「問いを立てる部屋」自体の説明には、「小さな問いを立てまくる部屋です。練習あるのみ」という雑な説明があるのみであり、トピックも「問いだけをする部屋。「なぜ」の質問は非推奨。いつ、どこ、だれ、どのようになどに置き換える」との記載があるだけで、その目的や細かなルールは明示されていない。一応「なぜ」の質問は非推奨ではあるとされているものの、その理由も明文化はされていない。

 しかしながら、たくさんの人が参加し、問いを立てて、またその問いには誰も答えない、という状態で、ひたすらチャットが進んでいる。実際に、「問いを立てる部屋」の7月7日時点のアナリティクスを見ると、儀礼研究所の6月ログが全体で732コメント、今月の会議室が2,098コメントなのに対して、問いを立てる部屋は576コメントを既に記録しており、その異様さが見て取れる。(週間イベントのゼミの1/4を既に記録している。なお、今月の人間研究所も参考程度に載せておくと既に1,348コメントであり、たくさんの人の労働時間を奪っていると考えられる。) 

 実際、「問いを立てる部屋」の中でも「問いを立てるのは何が目的なのか?」などと言った問いが立てられることもあるが、深く言及されることもなく(何より、答えを明らかにしようとするものはおらず)、新たな問いが連なるばかりでその真相は謎のままである。このように、「何故だかわからないがたくさんの人が盛り上がっている状態」は、今回の講義で習った<儀礼>なのではないかと考える。

(筆者自体も問いを立てる部屋が楽しくて仕方がなく、沸騰してしまっている。この原因を明らかにすることは、筆者の労働状況に直結する必要緊急の課題である。)

目的

 本稿では、

・プロ奢サロンにおける「問いを立てる部屋」に儀礼はあるのか?

・儀礼があるとして、儀礼の条件である信仰や神聖性というものは、一見して「問いを立てる部屋」には見当たらないように思える(少なくとも発足当時には何もなかった)が、どこから現れたのか?また、信仰や神聖性がないと思われる一般社会集団においても、今回と同様の手順で儀礼が発生することがあり得るのだろうか?

・儀礼である場合、<わたしたち>は何か?<わたしたち>に対して、どのような性質や効果をもたらしているか?プロ奢サロン内においてどのような役割を持つのか?

の以上、3つの「問い」を明らかにすることを目的として考察する。また、今後の展望についても一つの私見を述べる。

「問いを立てる部屋」は儀礼だろうか?

 儀礼とは、「二人以上で行い」「やり方が定められており」「聖なるもの」のことである。例としては、教会での礼拝、葬式での焼香などがある。いずれも二人以上で行うものであり、ルールが定まっていて、それを破るとなんか怒られる。仏壇にあげるお線香などは一人で行うものであるが儀礼的であり、上記の3点を満たすことを儀礼とは言いつつも、いくつかの例外は存在する。

 「問いを立てる部屋」は儀礼だろうか。問いを立てる行為自体は各自で行うものだが、誰かの問いに対して誰かがまた問いを立てたりしていて、そもそもその部屋の中でみんなで問いを立てまくるという一つの行為をしていると捉えれば、これは二人以上で行うものである。また、「なぜ」という質問はしてはいけないというルールと、暗黙的に発生した「問いに答えてはいけない」というルールが存在する。これは問いを立てる上でのやり方が定められていることに対応する。最後に、問いを立てる行為が聖なるものであるか、という点については、仮に聖なるものがあると仮定して考察を進めることとする。もしも聖なるものがないのであれば、ルールを破って「なぜ」という質問をし続ける人がいてもおかしくないし、暗黙的なルールが発生して浸透したという点からも、何か「問いを立てる部屋」の内部には暗黙的に何らかの<聖なるもの>が共通意識として芽生えつつあると考えることができる。

「問いを立てる部屋」における面白い現象の紹介

 「問いを立てる部屋」では、その素朴なルールとは裏腹に、時折いくつかの面白い現象が散見される。本節ではいくつかの例を紹介する。

問いの流れを感じる現象

 「問いを立てる部屋」では、各自で思いついた問いをひたすら呟くことによってチャットが進行している。したがって、思い思いに問いを立てればそれで良いのだが、誰かの問いに関連した問いを立てかける人が非常に多い。結果的に、突如として「問い」の連鎖が生まれ、チャットが盛り上がることがある。一方で、たくさんの人が関連する問いを立てている時には、関係のない問いを出しづらい、つまり話の流れを断ち切ってしまうことへの抵抗感がある、との「問い」も報告されていることから、何らかの「空気」が発生していると感じる人もいるようである。(誰も会話なんてしていないはずなのに。)

歌詞問い

 「問いを立てる部屋」では、問いの形式やジャンルなどについて細かな制約がない。発足当初は「〜〜か?」という形式の問いが多かったことは自然であると考えられるが、その中で有名なフレーズをもじった問いを立てる様子が見られた。例としては「私以外私じゃないか?」「時を超えて君を愛せるか?」「何でもないような事が幸せとはどのような状況なのか?」などがある。これに対して、スレッドで歌詞の続きが問いとして立てられる現象も観測されており、ある意味で大喜利のような状態を楽しんでいる人もいると考えられる。

問いの多様化

 「問いを立てる部屋」が盛り上がるに連れて、「問い」そのものや、「問いを立てる部屋」そのものに関する「問い」が立てられるようになった。その中で「〜〜か?という形に縛られる必要はないんじゃないか?」と言った問いが出たことを皮切りに、「〜〜ですか?」「〜〜でしょうか?」「〜〜なの?」「〜〜かしら?」のような文末の多様化、すべて平仮名で問いを立てる、問いを手書きで書いて画像を貼る、他の言語で問いを立てる、など、様々な問いが見られるようになった。「問い」についての問いを立て続ける様子は、何も知らない人からしたらおかしな人たちであり、<わたしたち>を形作っていると感じるだろう。また、その際の高揚感には集団的沸騰のようなものを認めざるを得ない。

小学生化

 プロ奢サロン内では、最近小学校が流行っている。小学校と言うと語弊があるが、端的に言えば、小学生のような生活によって圧倒的成長をしようというブームである。その影響があってか、「問いを立てる部屋」でもまるで小学生のような“幼稚な”議論が行われる現象が観測された。例としては、「ウンコか?」「虫歯がこわくないのか?」などのウンコや歯医者に関する問いや、前述の問いの多様化でも紹介した全文が平仮名の問いなどが挙げられる。一方で、そのような“幼稚な”問いに対して「幼稚な問いに意味はあるか?」「我々は幼稚な問いをするほうが難しいのではないか?」と言ったように、改めて議論が活発化される動きも見られた。

発火能力の向上

 「問いを立てる部屋」が盛り上がるに連れて、サロン全体の「問いを立てる力」が上がっていることも確認されている。例としては、「質問-相談」チャンネルに投稿された<お題>に対して、大量の問いが投げかけられることで議論が急速に進んだというケースや、<人間研究所>で提案されたメモ程度のアイデアに対して大量の問いが投げかけられて急激に<発火>する。議論に関するアイデアが翌日の別のチャンネルで即座に試されるなど、サロン全体として「議論力」とでも呼べる能力が高まっていることは見て取れる。

「問いを立てる部屋」における聖なるものとは何か?

 「問いを立てる部屋」は突如としてサロン内に発生したチャンネルであり、その部屋の目的も意味も明文化されていない。一方で、多数の参加者が存在し、ある種<集団的沸騰>的にまるで何か明確な目的があるかのように盛り上がっている。さらに、暗黙的に発生したルールとして「問いには答えない」という決まりが存在する。こちらも明文化されたものではないが、何らかの共通認識によって参加者全員が問いに答えることなくチャンネルが進んでいる。この「共通認識」や「明文化されていない目的」が、まさに<聖なるもの>の正体なのではないか、と考える。

 「問いを立てる部屋」には複雑な社会構造も規則もないが、問いを立てるという行為を繰り返す中で、元々存在していなかった「信仰心」が生まれていく様子が実際に観測されたと言える。また、一般社会にはさらに複雑な集団や組織が存在することを考えると、宗教色のない集団においても特定の行為を繰り返すことによって「何らかの明文化されていない目的」や「何らかの明文化されていない共通認識」が生まれていくことは自然であると考えられる。このような現象は、デュルケームが「宗教生活の基本形態」で言及した「信仰は社会がつくるものである」という主張とも対応している。

 また、プロ奢サロンにおける重要な目的として、1000人の<妖怪>スラムを作ることが挙げられる。このような背景から、プロ奢サロンの<トーテム>として<妖怪>があり、妖怪研究のためにはたくさんの「問い」および「気づき」が必要である。ぷろおごマガジン内においても「俯瞰でいること」や「嫌なものを見つけること」「自分の好きなことは何か」など、「気付き力」とでもいうべき能力に対する言及は多く、サロン内でもそれへの信仰心は極めて高いと考えられる。このような点からも、サロン内における<トーテム>の一つである「気づき力」を高めるために「問いを立てる部屋」が持つ意義は大きいのではないだろうか。

「問いを立てる部屋」における<わたしたち>は何か?

 「問いを立てる部屋」の様子は外から見ると明らかに異様な光景である。答えが与えられることがないにも関わらず、多くの参加者が日夜、平日や休日を問わずにただ問いを立てている。何を目的として問いを立てているのか、参加者である筆者にもわからない。しかしながら、内なる<インナーウェイ>が刺激されて、問いを立て、沸騰してしまうのである。儀礼を行う目的は一見してわからないことが多いとされるが、結果的に集団内の結びつきを強めるなどの働きがある。「問いを立てる部屋」はプロ奢サロン内の一つのチャンネルであるから、プロ奢サロン内の結びつきを強める効果が一つ期待される。「問いを立てる部屋」が勝手に盛り上がることによって、「問いを立てる部屋」の中での結びつきは強まるが、中と外の断絶が起こるのではないだろうか?「問いを立てる部屋」によって結びつきが強められる<わたしたち>は何なのだろうか?

 もしも「問いを立てる部屋」の内と外の断絶が起こると、それはプロ奢サロンの結び強めるためには逆効果である。この問題に対して、「問いを立てる部屋」と「えらい部屋」が同じ共通の構造を持っていることに言及したい。

 「えらい部屋」は、ぷろおごサロンの発足当初から勝手に作られたチャンネルであり、毎月作られている(人気の?)チャンネルである。一時期は、公式によって作られていたこともあった。このチャンネルでは、いかなる行為も「えらい」とする<儀礼>が行われている。この儀礼に関する敷居は極めて小さなものであり、儀礼に迎合できない者;<アスペ>をほとんど生み出さない構造となっている。実際、参加できない人に対しても「えらい」として受け入れるだろう。

 「問いを立てる部屋」では、「問いを立てること」が儀礼である。したがって、その儀礼に迎合できない者がいた場合、「なんで問いを立てているの?意味がわからない。」となる。そのような相手に対して「問いを立てる部屋」も受け入れる姿勢を示す。実際に、問いの多様化で説明したように「問いを立てる部屋」自体への問いが立てられることもある。したがって、「問いを立てる部屋」と「えらい部屋」はどちらもいかなる<アスペ>も排除しない。この寛容な構造は、「世の中の社会に迎合できない」「嫌なことをやめて生きていきたい」と感じてプロ奢ラレヤーの周りに集まってきた人たちに対して強力な効用があるのではないかと考えられる。

 このような観点から、「問いを立てる部屋」は「集団的沸騰」を起こしながらも、内と外の断絶を起こしづらい構造を持っており、プロ奢サロン内の結びつきを強める効果を持っているのではないだろうか。また、前節で述べた通りに妖怪研究を推し進めるための基礎的な能力の下地づくりにも貢献する点で「問いを立てる部屋」は大変興味深い<集団>である。

結論

 本稿では、

・プロ奢サロンにおける「問いを立てる部屋」に儀礼はあるのか?

・儀礼があるとして、儀礼の条件である信仰や神聖性というものは、一見して「問いを立てる部屋」には見当たらないように思える(少なくとも発足当時には何もなかった)が、どこから現れたのか?また、信仰や神聖性がないと思われる一般社会集団においても、今回と同様の手順で儀礼が発生することがあり得るのだろうか?

・儀礼である場合、<わたしたち>は何か?<わたしたち>に対して、どのような性質や効果をもたらしているか?プロ奢サロン内においてどのような役割を持つのか?

の3つの問いに着目した。それぞれの問いに対して、「問いを立てる部屋には儀礼がある。」「信仰は、儀礼から自然と生まれる。」「問いを立てる部屋における<わたしたち>は極めてプロ奢サロン全体と近いものである。また、サロン全体で気づく力を高めることに貢献すると考えられる。」という結論を得た。

まとめ

 儀礼とは、「二人以上で行い」「やり方が定められており」「聖なるもの」のことであった。プロ奢サロンにおいて突如発生した「問いを立てる部屋」には一見して<聖なるもの>という性質を満たしていないように思われたが、例え最初は聖なるものでなかったとしても、社会構造や<インナーウェイ>によって正しいとされるものであれば、その集団内で<聖なるもの>であると認識される。「問いを立てる部屋」でも同様に神聖な共通認識が存在しており、元々は何の目的もなかったにも関わらず、実際に何らかの「共通認識」によって暗黙的なルールが追加され、儀礼がアップデートされる様子が観察された。このことから、宗教観の有無に関わらず、社会一般に存在する集団で「儀礼」が起こることは極めて自然であることがわかる。

 また、「問いを立てる部屋」における<聖なるもの>が何だったのかを考えることで、サロン全体における信仰の正体が「気づく力」なのではないかという仮説を得た。「問いを立てる力」と「気づく力」には密接な関係があることから、「問いを立てる部屋」は現在関連分野にて盛んに研究が進められている妖怪研究への貢献や、サロン(1000人スラム)の発展への貢献が期待される。

 加えて、問いを立てる部屋はその性質から、儀礼を行うことのできない人間を生み出すことがないという特殊な救済構造をもつ。これは、サロン発足当時から力を持っているえらい部屋と同様の組織運用基盤に貢献する可能性がある。

 そのためには、問いを立てる部屋における儀礼に馴染めない人たち(つまり、ウェイになれない人たち、問いを立てる力がない人たち)に対しても「なぜ問いを立てる部屋が盛り上がっているんだ」という「一見否定的に見える考え」を持つことを許容させること、許容していること、をアピールすることが大切であると考える。

 また、そのような儀礼を通して少しずつ「問いを立てる力」を身につけさせていくことで、<陰キャマッキンゼー>や<東大女子>とまではいかずとも、大規模かつ効率的な<調査兵団>育成およびそのノウハウを獲得すること、加えて、妖怪軍団の育成、人造人間の発生ノウハウ、また、研究能力(しらべ学習ができること)のある<やばい集団>がプロ奢サロン内に生まれる可能性があるのではないだろうか。

 余談であるが、昨今の<妖怪研究>から、<妖怪>とは、「自己の欲求を理解して(時折無自覚に)邁進する者のことである」と著者は考えている。(そのために必要な条件は様々で、さらに広範な妖怪の定義やさらに狭義的な妖怪の定義を与えることも可能ではあるが、少なくとも著者は一つの仮説として上述のように考えている。また<ようふく研>などで議論されたし。)

 この仮説を裏付けるものとして、<妖怪>サンプルたちの<YAZAWAイズム>がある。とある妖怪は、自分のことを指して、「<自分>としては、良いと思うんだよね。」と言っている。また、矢沢永吉は自分の泊まるホテルがスタッフから十分に用意されなかった時に、自分のアーティスト性の権化として<YAZAWA>を指して、「俺はべつにいいけど、<YAZAWA>はなんていうかな?」という<問い>を投げかけている。これはまさに<問い>を立てていることに他ならず、俯瞰的思考や気づき力の高さを裏付ける例である。このように、<妖怪>である自分と本人自身の乖離、あるいは俯瞰的思考を持つことによって、何か自分の欲求に邁進する力が養われるのではないだろうか。この例からも<妖怪>性と「問いを立てる力」が関係していることわかり、様々な点からプロ奢サロンにおける「気づき力」の高さおよびそれを鍛える「問いを立てる部屋」の重要性が示唆される。

 このような点からも、プロ奢サロンと「問いを立てる部屋」が今後どうなるのか、さらに目が離せない。

謝辞

このような学びの機会を与えてくださった中島太一様をはじめとして、プロ奢サロンの皆様にこの場を借りてお礼申し上げます。また、このテンプレを作ってくださった白紙様に感謝します。私のトーテムは白紙様です。


ちょっと喜ぶ可能性があると思われます