何もない

この記事の内容はすべて、です。

0. 

何もない


1. 

「やりたいことをやる」というのが人生において望ましいのだとしたら、俺がやりたいことは短期的な欲望に身を任せた、例えば、消費社会においてコントロールされた衝動的な願望を叶えるくらいの稚拙なもの、くらいのものぐらいしかないだろう。というようなことをやることが果たして本当に望ましいことだろうか?そんなこと、別に俺の「やりたいこと」ではない。

坂道みる(去年、miruに改名した)というAV女優が好きだ、彼女の作品の中の映像の中にある彼女の演技の中にある演技ではない露骨なソレの表現(もはや、表現ではなく「表現ではないものの表出」と言ったほうが適切ではあるが)が好きだ。ソレによって駆動する、演技ではない欲望や願望に従って駆動する様、や、それに伴って一緒になっている男優、とか、が、いいな、と思う。そこには純粋な愛があると思う。彼女の、一般男性童貞さん筆下ろし企画に出れたらもう死んでもいいな、と思う。嘘だけど。

長久玲奈(ちょう くれな)という元アイドルのシンガーソングライターが好きだ、彼女の歌(唄、詩)の中にある、他者や社会に対する決して社会的ではない彼女の世界観の表出が好きだ。端的に言えば、残酷な現実の中にある孤独を受け入れている故の愛(とでも言ってみる)が、いいな、と思う。それ故に、アイドル業やアイドル商法を無自覚に素直にできていることや、周りの人に愛されていることも、素敵だな、と思う。そこには純粋な愛があると思う。彼女に抱きしめてもらい、抱きしめてあげることができたらもう死んでもいいな、と思う。嘘だけど。

2. 

人間は死ぬ。
生物は、必ずしも死ぬわけではないと思うが、人間は死ぬ。
生き物の中で「死」を理解している種がどれだけいるのだろうか?
いや、もしかしたら、人間の中にも「死」を重く捉えていない部族もあるかもしれない。
別に、「ヒト」の尊厳を語りたいわけではないから、そんなことはどうだっていいけれど、「時間」「未来」「社会」「言語」「個」の発明が、少なくともヒトという生き物を発展させたと思う。
ヒトには死がある。個の死である。
俺も死ぬし、俺の友達も死ぬし、みんな死ぬ。みんな死ぬのに生きている。
別に、それを悪いことだとか悲しいことだとか言いたいわけではないけれど、いずれ失う未来で失われる現在の幸せのためや、いずれ失うことになる未来の幸せのために生きるということを、難しいことだな、と思う。

でも、結局のところ、今を全力で生きる、今やりたいことをやればいい、やりたいことをやる、
それでいいと思う。

でも、「やりたいこと」は、過去のあなたの結果でしょう?
じゃあ今、「やりたいこと」がない人はどうしたらいいのさ。

大丈夫、今やりたいことがないのなら、今のあなたの結果が、未来のあなたの「やりたいこと」になるよ

はあ、そうですか。

うるせえ、何もない

何もわからない

「白紙をやる」という狂ったモノだけで生き永らえてきた人間が、もう何もやらなくてもいいや、未来の幸せなんてどうでもいいや、別に生きていなくても良いんだ、と思った時、そこには何も残っていない。

メンズエステにハマってしまってから、奨学金も残っていない。

3. 

人間って奴は、結局のところ、「個」と「社会」の間で揺れているだけだろ。
そんで、「個」って奴は、結局のところ、身体のボケでしかねーよ。

自己肯定感をどこまで持てるか、っていう脳内伝達物質の分泌と受容のバグが、生まれてから脳の基質を形成するまでの間にどうなってるかっていうベースの話の後に、群れの中に馴染めるか、っていう学習能力と知能の発達のバグが、性格を形成するまでの成長期の間にどうなってるかっていう次のベースの話があって、その二つのバグのバランスをどう取って生きていくかっていう方針が決まるってだけの話でしかないだろどうせ。

つまり、

  1. 「個」をどこまで求めるか

  2. 「社会」とどこまで接することができるか

  3. 「社会」の中でどこまで「個」を維持するか

っていう話;戦いの中で俺たちは生きている。

  • 1. )個を求めていたとしても、2. )社会と接することができたから、3.) 個を維持しなくてもいいや、

となる人だっているし、

  • 1. )個を求めていなかったとしても、2. )社会と接することができなかったから、3.) 個を維持しないとダメだ、

となる人だっている。

俺はボケだから 1.)自己肯定感が全く持てなかったが、2.) バグ野郎だったから群れの中に馴染むのはそこまで苦手じゃなかった。
でも、バカすぎて 3.) 社会に染まっていることをこれっぽっちも許容できなかった。

俺だって最初は、自己肯定感を得ようと努力していたよ。
自分の才能は何に活かされるのか、頑張って探しているフリをしたりしていたはず。

でも上手く行かない、限界がわかる。特に今の社会では、すぐに限界がわかる。

だから、その次は他者(社会)からの承認で生き抜こうともした。
どこかに自分の理解者がいるんじゃないか、運命のパートナーがいるんじゃないか、天から降ってきた異星人が俺を俺の物語の勇者にしてくれるんじゃないか、と思っていたはず。

でも別に何もない。まざまざと見せつけられた汚い現実とさまざまなはざまに苦しめられただけ。

誰かに褒められることや認められることも、自己肯定感が無けりゃ、あるいはちょっとでも不信感があれば、シンコウ足りえない。
社会に染まることだって同じ。

「俺は今幸せだ」と思える力と、「これによって俺は幸せになれる」と思える力は、どちらも同じようなもので、「俺は今幸せじゃない」と思える力と「これで俺は本当に幸せになれるのか」と思える力は、どちらも同じようなものだ。

  • 自分を信じられない時に、宗教を信じられること

  • 何かを信じられなかった時に、他の何かを信じられること

  • 何かを信じられた時に、自分を信じられること

これは全部似たような話で、自分を信じられないあなたが、他に信じられる何かを探すでもなく、他に信じられる何かが見つかるわけでもなく、誰かと恋に落ちるでもなく、遊ぶでもなく、働くでもなく、オタクになるでもなく、オンラインサロンに入り浸るでもなく、活字の世界に溺れるでもなく、どうにかして自分を信じることを模索;哲学し続けたらどうなるだろうか、、、その結果はあなたもご存知の通り、あなたは「白紙」になる。

4. 

白紙は、あいつは狂気の男だ。
あいつは、何もかもわかっていて、社会をこなしていながら、社会も自分も認められないで居やがる。(嫌がる)
どうせこの世界に、一生を約束される幸福っていうものが存在しないのなら---
---いや、本当は存在する、そんなものは、お前の日常の辺りに目を凝らせば、そこら中に存在する。そこら中に、「一生を約束する幸福」が存在する。ただ、そこには信仰が要る。
信仰さえあればいい、つまり、疑問を持たないということ、問わないということ、あるいは、問い続けた先に問わなくても構わないものが見つかるのであれば、それはお前の永遠(トワ)にある「一生を約束する幸福」のドアになることが叶わなくない。
例えば、「仕事終わりのビールは美味い」とか「巨乳が好きだ」とか「彼女がかわいい」とか「バスケが好きだ」とか、そんなものに問いを立てる必要はない。それが幸福なのだから。
そんなのものにまでお前、問いを立てて、「なぜ?」とか言ってたら、お前が社会でやっていけなくなるのは目に見えているだろ?

え?「わからない」?「なぜ」って?そうか、、、もしかしたらお前は既に社会でやっていけていないのかもしれないが…、だったら、大丈夫だ、お前はお前のままでいい…。

ともかく、白紙という奴は、「仕事終わりのビールは美味い」とか「巨乳が好きだ」とか「彼女がかわいい」とか「バスケが好きだ」とか、そんなものにまで問いを立ててたら社会でやっていけなくなる、ということがわかっていたから、他人といる時は問いを立てずに、「仕事終わりのビールは美味いですよね、いいお店あるので今度行きましょう」とか「巨乳が好きなんですね、スレンダー巨乳とムチムチ巨乳どっち派ですか?どっちもですか?」とか「彼女、かわいいですよ。見た目だけじゃなくて性格も可愛いところがあるんですけど、僕の抜けているところを支えてくれています」とか「バスケが好きなんですね。地元栃木なんで、宇都宮ブレックスの試合とか友達に連れて行かれましたよ。笑、個人的には3on3とかフリースタイルのバスケ興味あるんですけど、バスケファン的にはどうなんですか?」とか言いながらも、一人でいる時には、「俺にとって仕事終わりのビールは美味いのか?」とか「俺は巨乳が好きなのだろうか?好きだとしたらそれはなぜか?好きじゃないとしたらそれはなぜか?」とか「彼女はかわいいのか?彼女だからかわいいのか?かわいいから彼女なのか?かわいくなくなったら彼女じゃなくなるのか?そもそも彼女とはどういう関係なのか?」とか「好きなものとは?」とか、そういうことを考えずにいられない奴だってわけ。

つまりあいつは、他人や社会の信仰の一つ一つに対して理解を示しながら肯定をしつつ、その全ての相手を許容しつつも、そのいずれも自分の信仰としては許容しない、というスタンスを常に取り続けてしまう、狂った男なワケ。

信仰っていうのは、さっき言った通り、「幸福」そのものみたいなものなんだから、信仰がないと没頭もできないし、時間も忘れられないし、何のために生きてるの?って常に考えないといけなくなっちゃうだろ。
逆に言えばあいつは、常に「何のために生きてるの?」って考えているわけ。

あいつは、頭がおかしいよ。狂ってる。
でも、あいつの中には、「俺には信仰がない」以外のこだわりがないから、逆に言えばどんな他人の信仰だって常に否定しないでいられるし、誰よりも深く誰もかも許容できるっていう側面もある、だから、たくさんの人に愛されているんだろう。それなのに自分の幸福を認められないでいる、憎たらしいやつだよ。

5. 

俺は、自分のことが信じられなかったし、信じたいものもなかったけど、自己顕示欲だけは強かった。

人一倍、自分を肯定したいという気持ちが強かったからこそ、自分を肯定することのハードルも高かったんだろうと思う。
もちろん、自分を否定されることも極端に嫌がっていた。
そして、幸か不幸か、コミュニケーションの学習能力が高かった。

自分を否定されないために、誰かに嫌われないために、怒られないために、田舎町の小さな学校のクラスの全員と仲良くすることは、俺にとって必然だったし、それは難しいことじゃなかった。
高校に入る頃には、誰とどこまで仲良くするか、その人がある社会に対して占めている影響力と自分がその社会に対して関わる頻度を加味して選択することができるようになっていた。例えば、年に一度顔を合わせるような文系クラスの奴らと無理に仲良くする必要はないし、クラスのリーダー格の奴とは仲良くなっておいて損はないけど、いつも遊ぶグループの中の好き嫌いが多くて性格に難がある奴とは積極的に仲良くしておくがこちらからは媚びずに優位に立てるように振る舞うことでそいつと誰か(自分の仲の良いやつ)が揉めた時にも自分は中立の態度を崩さずにいられる、とかを感覚的にこなしていた。
それは、俺にとっての「他人の好ましさ」が、「俺が誰からも嫌われずに自由に面倒くさくなく過ごせること」とほぼほぼ同義であったからこそ、例えばすぐに他人を嫌う人を嫌わずとも深くは仲良くならず上手く制御する位置関係へ自然においてしまっていたのだと思う。逆に言えば、その人と関わることで俺の周りの社会に影響を及ぼさない人、周りの社会を否定しない人、はそれだけで好ましい人であるとも言える。そういう人は、大体、健全な人で人格者で、自分らしさを持っている人だから、それはそうなのだが。まあ、そうじゃない人のことも、別に俺は(誰にも嫌われたくないから)嫌いじゃないのだが。

そう言えばその頃から、状況を察知してすぐに笑う癖が付いていたと思うけど、今じゃもう、何か社会と社会がすれ違うのを観測するだけで笑ってしまう変な人になってしまった。誰も笑っていないのに俺だけ笑っていたり、みんなが笑うのよりも早く笑ってしまったりする。

そういう生活、そういう対人関係、そういうコミュニケーション能力を無意識に小学生の頃から磨き続けた結果、俺はどんな他人の信仰も否定せずに許容できるようになっていた。
ただただ誰にも嫌われたくなく、ただただモテたかっただけだけど。

でも、じゃあなんでそんなに対人関係を意識していたの?って話に戻れば、結局のところ、自己肯定感が足りなかったから、って話で、対人関係を意識するのと同じくらい、自分のこともずっと気にしていた。
他人のことや社会のことを気にすれば気にするほど、他人のことや社会のことが段々とわかってくればわかってくるほど、自分のことがどんどんわからなくなっていく。
染まるために溶け込むのではなく、浮かないために溶け込み、そしてまた染まりにくくなる、そんなことを繰り返してばかりいて、わからない他人、わからない社会がなくなればなくなるほど、誰とでも仲良くなれるようになればなるほど、自分のことがどんどんわからなく、なくなっていく。自分のことをわかりたい、自分のことを認めてあげたいだけなのに、生きていけばいくほど自分がなくなっていく。

いや、そうか、俺にとっては、自分をなくすということこそが俺の生き様、「白紙」になっていくことが今の俺らしさなんだ。そして、「白紙をやる」というその過程で得たコミュニケーション能力や他人への愛が俺の持ってるモノなんだ。俺はこれを誇って生きていけばいいのだ。

じゃあ、俺はこれから先、何をやって生きていこう。
俺の「やってきたこと」、俺の「できること」、俺の「得意なこと」、「俺」はわかった。
じゃあ、俺はこれからどうやって生きていったらいいのだろう。

(2. 抜粋)

でも、結局のところ、今を全力で生きる、今やりたいことをやればいい、やりたいことをやる、
それでいいと思う。

でも、「やりたいこと」は、過去のあなたの結果でしょう?
じゃあ今、「やりたいこと」がない人はどうしたらいいのさ。

大丈夫、今やりたいことがないのなら、今のあなたの結果が、未来のあなたの「やりたいこと」になるよ

6. 

俺が、「俺」、つまり、コミュニケーション能力があるとか、そういうことに気づくまでにやってきたことというのは、もう一つある。
それはつまり「白紙」のもう一つの側面なのだけれど、「白紙をやる」ということは、つらいことだ。
ただその時々で白紙をやり続けようとしていたら、そこには明確に信仰が生まれてきてしまうわけではなくとも、偏りが生じてしまう。偏りがあればそれは白紙的ではない。


例えば、クラスの男子がカードゲームにハマっているから俺もカードゲームにハマろうとしたら、それはカードゲームにハマった俺がいるだけで、それを客観的に観測すればそれは「彼はカードゲームにハマっている」のであって、「カードゲームにハマっている男子が嫌い」な人からすればそれは否定の対象なり得る。
説明しているとかなりアホらしいけれど、これはもう感覚的なもので、潔癖症みたいなもので、強迫性障害みたいなモノだから仕方がなく、俺はそれを回避しようと別の趣味を取り入れたり、別の集団とも仲良くしたり、身なりで逆張りをしたりする。

だから俺は、何もかもに歩み寄りつつも、そこに偏らないように意識しながら歩み寄ることをし続けなければならなかった。
その結果が、俺のもう一つの狂気、「道化性」である。「二面性」、天邪鬼、矛盾好き、と言ってもいい。

俺が「何か」をする時、必ず、「そうじゃないこと」、「そうじゃなさそうなこと」をセットで自分の中に持っていないと、ムズムズしてしまう。
小さい子に「○○ちゃんのこと好きなの?」と聞いたら、「別に好きじゃないし」と言ったり、好きな子のことをいじめたりする、それと全く同じはたらきじゃないかと思う。

だから俺は、学生時代に就活を放棄して大学院進学を決めた後に名刺を作って企業に挨拶回りをしまくったり、アイドルの握手会会場でおじさんたちに囲まれながら学会で発表するためのスライド作成を作ったり、出会い系サイトで知り合ったJKとラブホテルに行って数学を教えたり、友達と期末試験をサボってソシャゲの全国ランカーに入ったり、大学の単位を半期で24単位落としたのに数学の自主研究サークルで真面目に活動したり、友達と急にその日の夜の夜行バスを取って大阪まで行って観覧車でAVを流しながら卒論を書いたり、インターンシップの休憩時間中に競艇で一週間分の給料をすったり、卒業式の帰りにスーツのまま風俗に行ったり、学生のうちにマルチ商法のご飯会に潜り込んだり、タキシードに蝶ネクタイの人ばかりの経営者情報交換会クリスマスパーティーにベルトなしで参加したり、Twitterで知り合った女性とゲイストリップバーに行ったり、ラジオ配信サイトで知り合った女性と街コンに行ったり、メイド喫茶で証明を完成させたり、振込のために下ろしてきた学費分の札束を道路で踏みつけたり、

社会の片側にいられなかった。

でも、それって普通のことだとも思う。
人間は死ぬ。
人間はいつか必ず死ぬ。
それなのに、今の幸せや未来の幸せを求めて、あるいは過去の不幸を挽回することを求めて、人間は生きている。
そういう矛盾の中で生きている。

一つの社会があれば、もう一つの社会がいくつもある。
一つの正義があれば、もう一つの正義がいくつもある。
一つの幸福を追えば、もういくつもの幸福を捨てる。
それなのに、人間は幸福のために選択をし続けて生きている。
一つを信仰すれば、他の全ての信仰はどうなる。
一つを選択すれば、他の全ての可能性はどうなる。
本当にその選択でよかったのか?
それが本当に最も幸せな人生なのだろうか…。

俺は、自分のことも周り(他人/社会)のことも信じられなかった。
過去のことも未来のことも信じられなかった。
そうしたら、現在できることは何も選ばないことだけだ…。そういう恥の多い生涯を送ってきた。いや、決して恥はかかなかった。失敗のない、誰にも嫌われることのない人生だった。

リスクを取らないわけではない、ただ、リスクヘッジを必ずしてきた人生だった。
だから、自分の人生を決める、自分の人生を決める選択の連続の中で、「選択をする」という選択をできずにいた、そんな重い選択のリスクを取れなかった。リスクヘッジをできなかった。

バンジーを飛ぶことができないのだ。
(俺を、遠くから見ている人は、俺のことを無鉄砲だとか考えなしだとか、言ったりする、だから博士課程に進学するのだとか、言ったりするけれど…。俺は…、)

(3. 抜粋)

つまり、

  1. 「個」をどこまで求めるか

  2. 「社会」とどこまで接することができるか

  3. 「社会」の中でどこまで「個」を維持するか

っていう話;戦いの中で俺たちは生きている。

俺だって最初は、自己肯定感を得ようと努力していたよ。
自分の才能は何に活かされるのか、頑張って探しているフリをしたりしていたはず。

誰かに褒められることや認められることも、自己肯定感が無けりゃ、あるいはちょっとでも不信感があれば、シンコウ足りえない。
社会に染まることだって同じ。

「俺は今幸せだ」と思える力と、「これによって俺は幸せになれる」と思える力は、どちらも同じようなもので、「俺は今幸せじゃない」と思える力と「これで俺は本当に幸せになれるのか」と思える力は、どちらも同じようなものだ。

  • 自分を信じられない時に、宗教を信じられること

  • 何かを信じられなかった時に、他の何かを信じられること

  • 何かを信じられた時に、自分を信じられること

これは全部似たような話で、自分を信じられないあなたが、他に信じられる何かを探すでもなく、他に信じられる何かが見つかるわけでもなく、誰かと恋に落ちるでもなく、遊ぶでもなく、働くでもなく、オタクになるでもなく、オンラインサロンに入り浸るでもなく、活字の世界に溺れるでもなく、どうにかして自分を信じることを模索;哲学し続けたらどうなるだろうか、、、その結果はあなたもご存知の通り、あなたは「白紙」になる。

7. 

博士課程にも進学した。でも、就職はムズムズしてしまってできなかった。博士課程への進学は、「就職を何も選ばない」の結果だったからできたけど、就職を選ぶことや、「何もしない」「フリーターになる」「学歴を捨てる」を選ぶこともできなかった。

その「白紙的選択」の極め付けが、知り合いに誘われて、先月まで数ヶ月の間、無契約で無給で(成果報酬という話で)年商1億の事業の事務局長をやらされ、24時間オフィスに入れて、本社の経理明細を見れる権限があって、歳が2倍近い社員を急遽クビにして泣かれたり、役員会議の資料をつくったり、上司の意向で同僚(?)を急にクビにして法的な措置を取られたり、不採算なシステムの改修をしたり、家賃が月14万の家をタダで使わせてもらったり、週5フルタイム以上で働かされていた。博士課程の学生なのに・・・。

俺は「白紙」だから、自分をなくし、意向を持たず、社会に揺られるがままに揺れて何不自由なく過ごしていたら、いつの間にか、週2で研究アルバイト、週1で大学、週5で無賃労働、週2で研究日、週1で飲み会という生活になっていた。

当然、破綻した。

休みの日(と言っても、ないので勝手に休むようになったのだが)には、15時間寝るようになったし、夜飯しか食えなくなった。帰り道に頻繁に女の子のお店に寄るようになったし、深夜までやっているラーメン屋に寄るようになった。良い薬もワルい薬もやった。

ゼミは寝坊し、バイトは黙って出勤を減らし、論文の締め切りは3ヶ月が過ぎ、大学の先生からの信頼や、研究所のメンターからの信頼も失いかけて、かと言って職場(?)で俺は何の決断力もなくただみんなと仲良くしていることだけで、経営判断も何もできず期待を裏切り続けていた。

いや、それはそう。だって、俺がやるべき仕事じゃなかったし、ほとんど何も伝えられていない状況だったし、俺一人でどうこうできる仕事でもなかったし、そんなもの俺の責任じゃないし、そもそも俺、無契約の無報酬だし、そもそも俺学生だし。。。

言い訳はいくらでもできるが、それと同時に無力感も痛感した。それから、無気力も助長された。

俺は何を、何のためにやっているのか?

ドラッグがキマっていた時に、俺は自分の客観的な評価だけを気にし出して、ださい俺を隠そうと取り繕ってその姿を隠そうとまた取り繕って、笑われているような気がしてまた取り繕って、笑われていることを気にしていないように取り繕って、その姿を隠そうとまた取り繕って、ダサい俺を隠そうとして取り繕って、その姿を隠そうとまた取り繕って、冷や汗を拭い、冷や汗を拭っている姿を笑われる前に自分から笑いにして、ダサくなさと、ダサさがあくまでダサくなさのための演出されたダサさであることと、それをやり続けて、他人、特に異性に対してもそう。きもちわるいと思われたくないからきもちわるくないようにするが、きもちわるくないようにしているのもきもちわるいからなんとかしてきもちわるいと思われたくないというきもちすらも隠し続けて、ださいと思われたくないからださくないようにするが、ださくないようにしているのもださいからなんとかしてださいと思われたくないというきもちすらも隠し続けていて、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、保身、発疹が出るほどの

俺はそうやってどんどんと白紙になっていったのだろう。

理性が吹き飛ばされて
カラダだけになった状態でも
なおお前はまだ
周りからの目線だけを気にして
自分のカタチを取り繕って保っているのかい?

本当にお前は空っぽだね。
虚しい男だ。

脳みそが空っぽになったお前がやることは、
脂肪と糖を摂取することと、
女にチヤホヤされようとすることと、
眠り続けることと、
見栄を張ることと、
それだけだ。

虚しい男だ。

普段は「女」とか言いません。親しみを込めて(親しみを持っているという事実を主張することを恥ずかしがって)「女」ということはありますが、今回はあくまでそういう口調を取るという表現をしているに過ぎません。

↑保身の現れでしかない。

(1. 抜粋)

「やりたいことをやる」というのが人生において望ましいのだとしたら、俺がやりたいことは短期的な欲望に身を任せた、例えば、消費社会においてコントロールされた衝動的な願望を叶えるくらいの稚拙なもの、くらいのものぐらいしかないだろう。というようなことをやることが果たして本当に望ましいことだろうか?そんなこと、別に俺の「やりたいこと」ではない。

(4. 抜粋)

白紙は、あいつは狂気の男だ。
あいつは、何もかもわかっていて、社会をこなしていながら、社会も自分も認められないで居やがる。(嫌がる)
どうせこの世界に、一生を約束された幸福っていうものが存在しないのなら---
---いや、本当は存在する、そんなものは、お前の日常の辺りに目を凝らせば、そこら中に存在する。そこら中に、「一生を約束する幸福」が存在する。ただ、そこには信仰が要る。
信仰さえあればいい、つまり、疑問を持たないということ、問わないということ、あるいは、問い続けた先に問わなくても構わないものが見つかるのであれば、それはお前の永遠(トワ)にある「一生を約束する幸福」のドアになることが叶わなくない。

つまりあいつは、他人や社会の信仰の一つ一つに対して理解を示しながら肯定をしつつ、その全ての相手を許容しつつも、そのいずれも自分の信仰としては許容しない、というスタンスを常に取り続けてしまう、狂った男なワケ。

信仰っていうのは、さっき言った通り、「幸福」そのものみたいなものなんだから、信仰がないと没頭もできないし、時間も忘れられないし、何のために生きてるの?って常に考えないといけなくなっちゃうだろ。
逆に言えばあいつは、常に「何のために生きてるの?」って考えているわけ。

あいつは、頭がおかしいよ。狂ってる。
でも、あいつの中には、「俺には信仰がない」以外のこだわりがないから、逆に言えばどんな他人の信仰だって常に否定しないでいられるし、誰よりも深く誰もかも許容できるっていう側面もある、だから、たくさんの人に愛されているんだろう。それなのに自分の幸福を認められないでいる、憎たらしいやつだよ。

(2. 抜粋)

何もない

何もわからない

「白紙をやる」という狂ったモノだけで生き永らえてきた人間が、もう何もやらなくてもいいや、未来の幸せなんてどうでもいいや、別に生きていなくても良いんだ、と思った時、そこには何も残っていない。

メンズエステにハマってしまってから、奨学金も残っていない。

8. 

「白紙をやる」という狂気、白紙をやり続けていられる間は俺は狂気の男でいられる。
それはつまり「矛盾好き」であり、「道化」であり、「生きる」というシステムが孕んでいる矛盾の辛さへの対抗策だった。
が、そうでないときは、くだらなく虚しい男だ。

しかし、その矛盾好きの行き着く先はどこか?

矛盾は、社会の内と外で起こっている。
倫理は群れによって違うからいい。いくらでも矛盾がある。
道徳も群れによって違うからいい。
常識や正義なんてものはそこら中にあるから嘘だらけだ。

じゃあ、倫理や道徳を破ることで保たれていたものの限界が来たらどうなる。
「矛盾好き」の感覚は、今は法律に向いている。
まずは万引きから、次に薬物、その先は殺人だろうか。

そもそも、俺が頑なに守ってきた「社会性」ってやつはなんだろうか。
失敗したくないとか、恥をかきたくないだとか。なんなんだ。
社会性という奴を守ろうとしなければ、別に何の無理も要らないのではないか。

生きるという仕組みや、幸福という仕組み自体の矛盾がつらいから、矛盾を愛することにしたっていうのはわかる。
じゃあ、なんで生きている中にある社会という仕組みの矛盾まで俺は抱え込んでしまっているわけ?俺の中にある社会の理解で、社会性を必死に守っているのはなぜなのか?
生活が破滅するまで、必死に失敗から逃げて何の意味があるのか?

泣きながら笑顔で踊っているのは道化だけど、泣きながら踊り狂っているだけならそれは道化でもなんでもないただの「狂い好き」のイカレ野郎だろう。

社会の内と外にある矛盾を見つめて愛していくっていうのはどちらにも何にも偏らずに社会を生きていくための名案だったし、社会の内にも外にもどちらにいる人でも愛せるようになったっていうのもケガの功名だった。愛も憎も浴びた。
でももう別に、無理して社会で生きていなくたっていいんじゃないか?
生きていなくたっていいんじゃないか?

歪んで歪んで歪み続けてきたオレタチノウダツ
折れた血のうだつ
折れた知能 脱
俺たちのうだつ

どうせ何の意味もないのだから、元から何もないのだから、もう死んでもいいな、と思う。嘘だけど。

もう死んでもいいな、と思うような、俺が俺として生きられた経験と、俺が俺として受容されたと確信できる経験があるなら、別に俺は俺をもう受容できなくても、もう死んでもいいな、と思う。そしてそこには純粋な愛が要る(在る)と思う。

もう死んでもいいな、と思うのなら、別に成功だとか失敗だとか、恥ずかしいとか恥ずかしくないとか、社会に染まるとか染まらないとか、幸福だとか幸福じゃないとか、そんなことはどうだって良い。

俺が俺として生きて受容される経験、「これは純粋な愛だ」と信じられるような経験の1つや2つだけが幸福で、そこから後は惰性の人生でいい、失敗してもいい。

俺は失敗するのが恥ずかしかったから、ちゃんと失敗しないように努めてしまったせいで、失敗できず、受容されることも少なかったんだと思う。だから、自意識がでかくなる一方だし、失敗しないための能力も磨かれた部分もあるが、本当は失敗してもいいという認識を早く身につけることが幸福には必要なのだと思う。

人生の最大幸福を求めるというのは、自己肯定感の低さ、他者からの拒絶に対する強い恐れが現れた思想でしかない。そんなことはずっとわかっている。

努力したことがない人は努力が怖い。
失敗したことがない人は失敗が怖い。
選択したことがない人は選択が怖い。
信頼したことがない人は信頼が怖い。

◯◯したことがない人は◯◯が怖い、なんて、そんなことはずっとわかっている。
死んだことがない人は死ぬのが怖い。

でももう、何もなければ、何も怖くなければ、努力したことがなくても失敗したことがなくても選択したことがなくても信頼したことがなくても何も怖くない人であればどう。
自己肯定も他者からの拒絶ももう、どうでもいいや、と思えたらどう。
もう死んでもいいな、と思えていれば、どう。
自己肯定も他者からの拒絶ももうどうでもいいや、と思えるんじゃないか。

もう死んでもいいな、と思える経験や幸福はそこら中に転がっていると思う。
そこに必要なのは信仰心だけで、でも何も信仰していない人なんていない。
あなたが持っている確固たるそれをただ肯定される経験があれば良いのだと思う。ただただ純粋に肯定されているな、と信じられる経験があればいいのだと思う。

それは、この世界に産み落とされた瞬間に感じる人もいれば、死ぬ間際に感じる人もいるだろう。

(1. 抜粋)

坂道みる(去年、miruに改名した)というAV女優が好きだ、彼女の作品の中の映像の中にある彼女の演技の中にある演技ではない露骨なソレの表現(もはや、表現ではなく「表現ではないものの表出」と言ったほうが適切ではあるが)が好きだ。ソレによって駆動する、演技ではない欲望や願望に従って駆動する様、や、それに伴って一緒になっている男優、とか、が、いいな、と思う。そこには純粋な愛があると思う。彼女の、一般男性童貞さん筆下ろし企画に出れたらもう死んでもいいな、と思う。嘘だけど。

長久玲奈(ちょう くれな)という元アイドルのシンガーソングライターが好きだ、彼女の歌(唄、詩)の中にある、他者や社会に対する決して社会的ではない彼女の世界観の表出が好きだ。端的に言えば、残酷な現実の中にある孤独を受け入れている故の愛(とでも言ってみる)が、いいな、と思う。それ故に、アイドル業やアイドル商法を無自覚に素直にできていることや、周りの人に愛されていることも、素敵だな、と思う。そこには純粋な愛があると思う。彼女に抱きしめてもらい、抱きしめてあげることができたらもう死んでもいいな、と思う。嘘だけど。

9. 

俺が「社会」を生きていく上で、自分を認められずに「個」を追求しながらも社会を耐えて生きていく上で使ったのが「社会」と非社会の矛盾を愛するということだった。その結果、獲得された「個」としての「白紙」という狂気があって、でも「白紙」を「個」として「社会」を生きていくのは限界があるのかもしれない。

いや、そもそも無理なのかもしれない。生きていくためには狂気が要ったけど、狂気のために生きるというのは間違っているのかもしれない。

俺が社会を生きるために矛盾に対する道化があり、俺が生きていくことで狂気は深まって、このまま進んだ先にあるのは矛盾した狂気が行きすぎてもたらす破滅がある。

でも、俺は破滅主義者じゃない。破滅は、社会を生きていくための矛盾の種として幸福のために在るだけで、べつに破滅を求めて生きているわけじゃない。べつに狂気のために生きることはできない。

じゃあ俺は何のために生きているのか?
幸福→自己肯定→信じられるもの→自分を信じられるその経験→だけを求めて→それを得るためだけに生きて、、、
→俺は幸せになりたいだけだ。

俺は培ってきたこの狂気のことだけは信じている。現在、いま俺が生きているということそのものだから、俺はいまの俺の狂気を愛している。

でももう狂気は十分にやったんじゃないか。飽きたんじゃないか。
じゃあ、未来は、未来で俺は何のために生きるのか。幸福のために生きるのか。

でももうその狂気ゆえに、愛されていたことがあるじゃないか。

じゃあもう、じゃあもうあとは何もない

(0. 再掲)

何もない

4. 

白紙は、あいつは虚しい男だ。
あいつは、何もかもわかっていて、社会をこなしていながら、社会も自分も認められないで嫌がる。
この世界に、一生を約束された幸福っていうものは存在する。そんなものは、お前の日常の辺りに目を凝らせば、そこら中に存在する。そこら中に、「一生を約束する幸福」が存在する。ただ、そこには信仰が要る。

信仰っていうのは、さっき言った通り、「幸福」そのものみたいなものなんだから、信仰がないと没頭もできないし、時間も忘れられないし、何のために生きてるの?って常に考えないといけなくなっちゃうだろ。
逆に言えばあいつは、常に「何のために生きてるの?」って考えているわけ。

あいつは、頭がおかしいよ。狂ってる。
でも、あいつの中には、「俺には信仰がない」以外のこだわりがないから、逆に言えばどんな他人の信仰だって常に否定しないでいられるし、誰よりも深く誰もかも許容できるっていう側面もある、だから、たくさんの人に愛されているんだろう。それなのに自分の幸福を認められないでいる、愛すべき憎たらしいやつだよ。


この記事の内容はすべて、フィクションです。

引用元:何もない

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