20200620

毎日、インプット(観たり読んだりしたもの)とアウトプット(考えたこと)を記録していきます。

今週の目標

毎日はたらく

日記

味のしないパンを30ふんくらいかけてもしゃもしゃと食べた

企業の人と面談をした

今日は妖怪たちと戯れてくる。会ってから俺がどうなるのか知らないが、すぐには日記を書けないだろうと思うのでここに記しておく。


インプット

アウトプット

妖怪性を上げたい。

人間性や動物性をメタ的に俺は獲得しているが、その先に幸せはない(と信じ込んでいる)。

自己矛盾を孕んだ自分を肯定したいし、それが自分だと思っているが、もしかしてその先にも幸福はないのではないだろうか。

なんだろう、俺の今の幸福感は、「これから先も不幸だろうなあ」みたいな危うさの上で成り立っているというか、テスト前日に勉強せずに飲み会しちゃう大学生みたいな、そういうことの延長線上でしかないのでは?

それで良いんだと思うけど、たまに浴びせられる正論が痛い。死ぬまで「大学生」でいて何が悪いのだろうか?

死ぬまで「大学生」でいたいんだが、卒業したほうが幸せなのか?

毎日日記を書いているうちは妖怪になれない気がする。妖怪になりたいとは思っていないが、なってしまったほうが楽なんじゃないんか、という気持ちもある。

でも、今の俺には「大学生」以上のアイデンティティがない(と信じ込んでいる)。だから、妖怪になったところで何も残らずに、ただの無になってしまうのではないかと感じてしまう。

でも、本当は妖怪になる過程でアイデンティティが得られるのだろう。

「大学生」でいたいけど正論が痛いから「妖怪」になろうとしている。でも、妖怪になるために払う代償は、大学生を卒業するのと同じくらい取り返しが付かないような気がする。でも、妖怪になることでちゃんと求めるものが手に入るはずだ、だが、まだ怖いのだろう。この怖さを拭うほんの少しの自信があれば良い。

前も同じようなことを書いたな。

妖怪になれば自分が妖怪じゃないこととか社会のことなんてどうでもよくなるから妖怪になる。しかし、妖怪になりたいと思っている以上は妖怪になれない。そういう思いを消すために「何か」の力を借りる必要があるのかもしれない。

以下、上の日記の引用。

そもそも、俺の研究の欲求の一つは、個々の存在価値の否定だった。自分の尊さなど示せないのであれば、すべてに均しく尊さなどないことを示したかった。そして、すべてに均しく尊さなどないのであれば、自由に好きに過ごしていればよい、という帰結を得て、満足したかった。そしてその行為自体が自由に好きに過ごすことそのものであった。

だが、個々の存在価値は未だに否定できない。個々の存在価値が否定できない以上、俺の非尊さがまざまざと眼前に叩きつけられる。そのような状態でどうすれば自由に好きに過ごせるものか。結果的に、自己の尊さを求めながら、あるいは尊いと信じることのできる相手にすがりながら、それらを否定するために尊く生き続けるといった自己矛盾の中で生き続けなければいけない。自己矛盾の構造自体は不安定であり、未知の不安を抱えざるを得ないだろう。

これは、人間的に生きている故の悩みだ。死にかければ、このような悩みもなくなるかもしれないと思う。しかしながら、文化から切り離されて動物的な生命の危機を感じて生き延びる、といった解脱の仕方は適切なのだろうか?野生化された俺が、再び俺自身としての自我を持ちながら研究、あるいは生を全うできるだろうか。俺は、嫌だ。これは俺のエゴだ。人間的な悩みの中で葛藤している俺自身を尊いとしたがっているのだ。過去の自分を否定することが怖いのだ。なんて馬鹿な奴だ。なんて傲慢な奴だ。

そして再び考える。毎日「上手く生きていくぞ」と自分に言い聞かせて、そのための理論を考えて自分に伝えて遺している。一方で、「上手く生きていかなければ」と考えている以上、自分は「上手く生きていくことができていない」のではないだろうか。つまり、「上手く生きている」ならば「上手く生きよう」なんて思わないのではないだろうか。

俺は「上手く生きていない」。昔よりは上手く生きているだろうと思うが、俺はおそらく「上手く生きられる人」ではない。だから、努力し、悩み、もがき続けて、そこを目指している。単純に、この混沌としたもがきが好きなのだろう、と思う。自傷行為は快感なのだ。この忙しい時期に、下らぬ冗長的な思考に思いを馳せて鬱々としていることがたまらなく快感なのだ。こうやって精神の安定を図っている。

でも、もしもこのような精神の安定を、社会的な制度に押し付けて契約することができるとしたら…。いや、それもやはり社会的な解脱でしかない。俺はこのまま、野生にも社会にも染まることなく、もがき続けて生きていくことを望んでいるのだ。きっとそうなのだろう。

「上手く生きることはできない」と悟っていながら、「上手く生きていきたい」と叫んでいる。クソ馬鹿だ。俺はこの自己矛盾を大事に抱えて生きていくのだ。高度に不健全で、高度に健全なのだ。俺は尊いのだ。

俺は本当に尊いのだろうか…?

せめて、正論に対して自分の矛盾をハッキリと押し付けて強がれるくらいには強くなりたい。ほんの一握りの自信と勇気と覚悟があるだけでいい。

これを、俺以外の異なる妖怪との関わりの中で感じたい。それはつまり、山頂で挨拶をするようなことだ。俺は一人で山登りなんてできるほど強くない。でも誰かと一緒に山登りするほど寂しがりじゃない。

俺にはあとほんの一握りの「何か」が足りない。それは例えばもう少しで直感が手に入るといったような感覚。そう俺の直感が言っている。


うわーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!

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