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四季ノートルダムの鐘 京都劇場にて

随感随筆なんてものじゃあないけど、思ったままにノートルダムの鐘について
ノートルダム見た人は是非ご連絡を どこが良かったか感想共有したいです

3/4 キャスト陣

激情の劇場

8ヶ月ぶりの四季ノートルダムの観劇
京都まで足を運んで、本当に来て良かったと思える観劇であったと胸を張りたい。
京都劇場に公演30分前に着き、招待状のように紙で発券したチケットを握りしめて、真っ先に目に入る鐘のポスターに心を躍らせて。舞台のセットを見た時、つい「はぁ」と声が漏れ出てしまった。オタクなので仕方がない。公演前には隣の上品なマダム2人と雑談しながら今か今かと公演開始を待ち侘びた。劇場のライトが落ち、Olimが聞こえてきた後は、ただひたすらに1482年のパリと美しい鐘の音に思いを馳せて。

キャスト陣について

  • カジモド(飯田達郎)
    まず初めに、飯田カジモドの演技力と歌声の素晴らしさに完全に引き込まれた。「Out There」の歌い出しはいつもの会話の時と同じように、障害を抱えて舌足らずなカジモドの声を連想させられる。しかし、「みんなと1日過ごせたら」と彼の夢に触れてからは、一気に希望に満ちた美しい歌声に変わっていく。カジモドの自分だけの世界の中には、どれだけの希望と夢が満ち溢れているのだろうか。
    次に気になったのが、フロローに聖アフロディージアスの話を聞かせてくれと頼むシーン。子供が絵本を読んでくれとせがむような、純粋な無邪気さではない何かを感じられた。フロローと話をしたい。フロローにこの部屋にいて欲しい。最も、前提として考えておかなければいけないのはフロローに対して叱られることへの恐れを持ち続けていることだ。それでもなお、唯一常に居続けてくれる存在として、フロローを庇護者のように見ているカジモドの愛を感じた。
    また、「Top of the world」のシーンにおいてエスメラルダと二人で柵の上で点を仰ぐ場面。初めてガーゴイル以外に自分に恐れを持たずに話してくれる存在と出会ったことで、抑圧から解放されて真に羽ばたけるような気持ちになれたのだろうと思う。フロローの言う「人が2人いて初めて成立する会話」を経験し、本当に楽しそうなカジモドを見ると、ここから恋心やフィーバスへの妬み、復讐心など様々な感情が芽生えていくきっかけになったのではないかと考えてしまう。
    そして、フロローとの最後の決別のシーン。エスメラルダを殺され、今まで育ててくれたフロローに対して復讐心と殺意を持つようになるシーン。「お前のせいだ」「悪人は罰を受けるんだ」の台詞からは今までのフロローに抱いていた感情とは別のものを感じる。愛とは何か。愛していた相手を殺されてしまったからこそ、同じく愛していた人を憎むようになる。彼の慟哭は余りにも残酷なものであった。なんて悲しいシーンだろうか。ただ、カジモドがフロローへの愛を消し去ったわけではないのは明確である。横浜で初めて観劇してからずっと僕の心に残り続けているカジモドの台詞「僕が愛した人たちは、みんな横たわっている」。目の前には焼死した愛するエスメラルダが横たわっている。柵の向こう、聖堂の下には自分が投げ飛ばし、奈落の底に落ちていったフロローの亡骸が横たわっている。カジモドにとって、鐘突き塔でフロローと過ごした時間は、彼の世界のほぼ全てであった。どんなことがあっても自らを育て、色々なことを教えてくれたフロローへの愛情は変わらないのだろう。愛してしまったのならば、嫌いにはなれないのだから。これもまた人間。人間の難しさが伝える、聖書が説く愛へのアンチテーゼなのである。その歪み切った美しさを伝えてくれるこのシーンに、僕らは人間だからこそ、狂おしいほどに惹きつけられるのであろう。

  • クロード・フロロー(野中万寿夫)
    野中フロローの第一印象は、「激情」だった。村俊英さんのフロローを観劇した時には、本人が吹き替え版の歌を担当している通り、歌パートではディズニー版のクロード・フロローの印象が強く、かなり落ち着きのある「冷徹」なエリートといった感想であった。個人的に、野中フロローからは高低差のある感情の波や、冷徹な仮面に隠された愛への欲望と弱さなど「人間味」を強く感じると思う。
    聖アフロディージアスの名前を間違えるカジモドに声を荒げるシーンや、エスメラルダに「あなたの救いはいらない」と断られ、激昂するシーンなど自分の思い通りにならないことへの怒りのパワーが強く感じられた。この背景には様々な理由が考えられるだろう。若くしてエリートコースを進み、神に仕える身として自身とその背後にいる神の正しさに拘っていたのか。自分の思い描く道を進まず破滅した、愛するジェアンを救うことができなかったことを悔やんでのことなのか。何れにせよ、旧約聖書において子供を生贄に差し出すアブラムのような非現実的な綺麗事のない、人間らしい感情を感じられるフロローは非常に魅力的である。
    このミュージカルのテーマ「人間と怪物、どこに違いがあるのだろう」とあるが、よくフロローは人間の皮を被った「怪物」として取り扱われているように思われる。これは個人的な意見だが、僕はこのテーマにおいて、人間と怪物の垣根はあまり大きく存在しないと考えている。人間は時に怪物のような恐ろしい面を見せ、怪物にも人間らしいところがある。姿形が人間か怪物か否かなどと言う単純な問題では説明できない美しさがある。カジモドは善い人物で、フロローは悪い怪物などといった思考停止した薄っぺらい見解では片付けられないのである。人間と怪物、善と悪、光と闇の世界は隣り合わせでありながら、反復横跳びしながら相まって共生する存在なのである。
    僕は、フロローこそ物語の中で最も「愛」に溢れた人物であると思う。幼少期から肉親の愛情を知らずに育ち、唯一の肉親であるジェアンを愛しながらも、ある意味では自分の手で殺してしまう。そして、生まれて初めて恋愛感情を抱いたエスメラルダからは憎まれ、またも愛する者を殺すこととなり、最後には自分を愛していると思っていたカジモドの手によって自らが殺される。「愛」に生き、「愛」に死んでいく人生であったクロード・フロローの物語からは「愛」の強さと呪いのような怖さを感じ取ることができる。「Hellfire」から感じた身を焼き焦がすようなフロローの激情は、観劇する観客の心にも届いているはずである。

  • エスメラルダ(山﨑遥香)
    山﨑エスメラルダの艶やかな佇まいや美しい歌声にあっという間に魅了されてしまった。あれは確かに天使か悪魔だろう。初めて会った女性がエスメラルダであったカジモドのことを、僕は少しだけ羨ましく思う。カジモドが初めてフロローに嘘をつくシーンにおいて、ナレーションの「初めて嘘をついた」のパートがエスメラルダによって読み上げられる。この瞬間、彼が縋り付くべき存在が自身の中で変化したのだろう。そして、エスメラルダの持つ魅力が「人間」と「怪物」を逆転させてしまうほどの力を持ったものであると僕たちは改めて実感させられることになる。
    エスメラルダは「人間」に最も近い存在として語られながらも、ある意味では「人間」から最も離れた存在としても捉えることができる興味深い存在であると思う。根なし草のジプシーとして強く生き続けるために、彼女は自分の軸をぶれさせることなく踊り、娼婦として身を窶しながらも身銭を稼ぐ。ジプシーとしての生き方という宿命を受け入れ、強くしぶとく生きようとする彼女の姿は誰よりも輝く美しい人間そのものだろう。
    しかし、「God help the outcasts」で歌われる彼女の清らかな歌声と信念からは、人間離れした神々しい美しさと救いを感じ取ることができる。ただ自分が生きるだけでなく、仲間の救いを求めるその高潔さからは、他の登場人物から感じる複雑な感情を感じにくいのである。フロローは彼女の中に救いを求める姿を見出すことができるからこそ、自分ならエスメラルダを導く事ができると述べているが、僕にはそうは思えない。フロローはエスメラルダに救いとしてのイコンを求めているのである。言うなれば、歪み切った人間と対をなす聖母の立ち位置なのである。弱きものに救いを与える天使にも等しいのだ。
    前提にはなるが、無論エスメラルダに様々な感情がないと考えているわけではない。ただ、このエスメラルダという余りにも大きい存在について考えるに当たって、僕の乏しい語彙力と表現技法では彼女について表す事が出来なかったのだ。悔しくてたまらない。大淫婦バビロンのように純粋な悪をもたらす存在として書かれていたらどれだけ楽だっただろう。だからこそ、タンバリンのリズムに合わせてあの歌詞が思い浮かんでくる。「誰だ、あれは」と。

  • フィーバス(佐久間仁)
    佐久間フィーバスを観劇するのは初めてだったが、音源通りの歌声と素晴らしい演技、そして想像通りの男前なフィーバスで心の底から感動した。戦場に置いてきた仲間たちを忘れ、パリで逃避しようとする姿や、エスメラルダに魅了され、彼女が彼の全てになっていく姿。あらゆる場面においてフィーバス・ド・マルタン隊長という人物の魅力が詰まっていると思う。恐らくノートルダムの鐘を見た方は興味深いシーンとして、必ずこのシーンを挙げると思うが、エスメラルダに「墓標のない墓に仲間を埋める仕事かしら?」と言われた際に見せる、彼の憮然とした表情に堪らなく惹きつけられるのである。思いやりの心があり、持ち前のルックスや恐らく貴族出身であろう育ちの良さ、そして現在の大聖堂警備隊隊長という地位など全てを手に入れた存在として書かれているフィーバスであるが、エスメラルダを手に入れたと思った矢先に彼女を失い、最後に自身の対とも言えるカジモドにエスメラルダの遺体を任せるなど、全てを失っていくものとして描かれているのが、非常に興味深い。
    フィーバスとエスメラルダは共に「Someday」を歌い、2人が自由に生きることのできる救いが訪れた世界を待ち望んだにも関わらず、フィーバスのみが現世に取り残されてしまう。僕がフィーバスについて気になるのは、彼がこの後どうなったかである。クロパンにはジプシーとして生きると述べていたが、あれはあくまでもエスメラルダと共に生きるという目的ありきである。ジプシーとして生きるということは、現代社会に生きる僕らが想像できないほど厳しいものなのだろう。
    僕は彼が戦場に戻ったと想像してしまう。全てを失い、彼が行き着く場所はどこか。傭兵として失った仲間の後を追いかけるのではないか。1480年代後半のフランス、神聖ローマ帝国周辺は戦場だらけである。死に場所にはもってこいだろう。しかし、彼が死んでも天国でフィーバスとエスメラルダは再会できるのか。答えは誰も分からない。世界は残酷なのだから。

  • クロパン(高橋基史)
    2回目の高橋クロパン観劇だったが、相変わらず奇しさと色気を感じさせる素晴らしい演技力で脱帽した。僕はクロパンが「Topsy-Turvy」で見せる怪しさに溢れたジプシーの首領の姿が狂おしいほどに好きだ。ディズニー版のクロパンは陽気だがつかみどころのないキャラとして描かれていたが、四季版のクロパンからはもっとドス黒い何かを感じる事ができる。道化の祭りを楽しく騒ぐ姿と、奇跡御殿で容赦無く2人を処刑しようとする姿のコントラストが堪らないのである。

  • アンサンブル/クワイヤ
    ノートルダムの鐘という唯一無二のミュージカルを支えるアンサンブルとクワイヤには感謝の念しかない。
    アンサンブルは最初から最後まで通してパリの民衆の生々しさや、カジモドを支える石像の非現実感など、ノートルダムの鐘の世界を余す事なく僕たちに伝えてくれる。特に、カジモドがエスメラルダを助けようと奮闘する場面における、想像力を補う演技の数々は素晴らしい限りだ。柵を体で表現する場面や、梯子を使った高低感の演出など全てが美しく設計されている。売春宿に集う猥雑な売春婦たちの妖艶さ、美しい歌声の数々。このような素晴らしい劇を作り出すメインキャストである。
    そして、クワイヤがもたらす凄まじい「音圧」これはノートルダムの鐘を劇場で観劇する事でしか得られない最大の幸福である。重々しく、威圧感に溢れながらも天まで届くのではないかと思わせる歌声を生で聴く事ができるのは観劇の特権であろう。Spotifyの音源を100回イヤホンで聴いたとしても、満たされることのない欲求を植え付けてくる恐ろしいクワイヤである。聖歌は僕らを美しいパリの舞台へ連れて行ってくれるのだ。

最後に


ノートルダムの鐘を見終わって、京都から1時間かけて大阪の宿へ帰った。疲れ切っていたはずなのに、頭の中に浮かぶのはノートルダムの鐘のことばかり。翌日は早朝からUSJ行きが決まっているにも関わらず、帰ってから真っ先にパソコンを開いてこの感情をなんとか文に起こしたい気持ちに囚われた。何せ普段文章を書かない者なので、文章構成やイキった表現に塗れた駄文になってしまったことを、ノートルダムの鐘という素晴らしい作品に対して申し訳なく思う。「人間と怪物、どこに違いがあるのだろう」というテーマはしばらく後を引きそうだ。東京公演が5月から始まるのを心待ちにしている。
読んでくれた心優しい「人間」もしくは「怪物」の皆さん本当にありがとう。ぜひ語りましょう。お願いします。



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