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160.怪物(2023)

「怪物だーれだ」という不気味な予告が印象的なこの映画は,1つの事件に多角的に光を当て,黒沢明監督の『羅生門』的な構成で進行する。1つの物事をさまざまな角度から見せられると,自分たちがいかに狭隘な視点で世界を見ているかを気づかされる。戦争が「正義と悪」という二項対立で片付けられないように,現象は簡単に割り切ることはできない。人は世界を自分の見たいように見ているという「認知バイアス」は誰しも心当たりがあるだろう。SNSの世界では特にその傾向が顕著だ。子供に体罰を加えたとして謝罪する教師(永山瑛太)は,母親(安藤サクラ)のいるその場で飴を口にするが,あの行為は実際に起こったのか,それとも母目線ではそういうふうに見えたのか。常識的に考えれば,謝罪の場で,教師が飴を口に入れ,噛み砕くことは(おそらく)ありえない。もしそのような脚本があれば「リアリティがない」として修正されるはずだ。しかしこの映画にはその「ありえないこと」がいくつも書き込まれている。さらに,教師の口調や態度もおぼつかない。下手な役者の演技を見せられているようだ。しかし,これらは母親には「そう映った」という認知の表現なのではないだろうか。「実際に起こっていないこと」も映画は描き出せる。幻や想像,過去や未来として。もちろん「認知バイアス」をその系で表現することも可能である。映画が終わっても,作品世界の事件は解決しないし,解釈は観客に開かれている。悪く言うと物語の構造は「ネグレクト」されている。多くの物語には起承転結があるが,この映画にはそれどころか着地点がない。だから見終えたあとにもやもやした気持ちで,劇場をあとにする人も多いだろう。本作は割り切れない現実のリアリティを提示しているように思える。そして,大雨警報の発出された夜に,子どもたちが打ち捨てられた電車に乗って新しい世界へと「出発」するラストシーンはまるで『銀河鉄道の夜』のように美しい。光の中へ駆け出す彼らは怪物だらけのこの世界から抜け出すことができたのだろう。それがどのような救済だったのかは定かでないが,『銀河鉄道の夜』の風景を想起させられた私はそこに死を読み取った。真実はひとつではない。物事を単純化することに警笛を鳴らす鉄道は,邦画の次元をひとつ繰り上げることに成功した。第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出され,「脚本賞」と「クィア・パルム賞」の2部門を受賞。脚本は坂元裕二

監督*是枝裕和
主演*安藤サクラ
2023年

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