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推しても引いても(2022.2.5)

少し前の話。仕事から帰ってNHKを見ていたら『プロフェッショナル 仕事の流儀』の「となりのプロフェッショナル~推し活の流儀~」が始まって、そのまま最後まで見てしまった。ザッピングしていたら面白そうな番組が見つかってチャンネルを変えられなくなってしまうような体験はとてもよいですね。ふだん地上波はあまり見ないけど、NHKの組むニュースや特集はよく見ている。

人は誰かを推すために生きている」とは宇野常寛だけれど、ゼロ年代の近傍で登場したモーニング娘。そしてAKB周辺から「推し」という言葉が生まれ、市民権を獲得するに至った。「となりのプロフェッショナル」で登場した人物たちは、アイドルを推すタイ出身の女性、漫画が好きで東京から青森に移住した青年、ゲラおじさんとして毎日劇場に通う中年男性というラインナップで個性が強い。しかし、「推す」対象はアイドル、漫画、お笑い、となんでも良いのである。好きなものを好きだけ推せばいい。「推し活」には、他人を喜ばせ、さらには自分にもその恩恵が還元されるという永久機関的な循環構造にあるのだろう。

「推し活」と「オタ活」はスペクトラムが重なっていて、互いに干渉し合いながら社会経済に複雑な縞模様を描いている。今や「オタク」へのネガティヴなイメージは薄れつつある。かつてのオタクに対しては引きこもりでチェックシャツでメガネ、早口でディスコミュニケーションというようなステレオタイプ的偏見があったわけだが、時代の趨勢とともにそのイメージはある程度、払拭されてきた。SNSの発達により、オタクの生態系が変化してきたのだろう。スマホの登場によって情報発信が容易になると「ちょっと好きかも」レベルで同じ趣味を持つ人たちが繋がるようになり、「オタク」という定義の適用範囲が広がった結果、「オタク」はマイノリティでなくなっていったのだった。歴史が教えるように迫害されるのは常に「マイノリティ」である。集団に属する人数が増えればその属性が「普通」として登録されていくからだ。喫煙者が現在、肩身の狭い思いをしているのは喫煙者が減り、マイノリティになったからである。

多くの人はなにかしら「好きなモノ」や「好きなコト」を持っているということが「普通」である今、SNS等で消費行動がミラーリングされ、行動経済学が更新されていく。「推し」という言葉が「発明」されると、その言葉の無害さ、新鮮さによって多くの人が自分の圏内で適用するようになっていき、「推し」という単語はインフレ的に人口に膾炙していった。けれどそのような単語は内部に暗い遺伝子を残していることがある。たとえば無害に見える「推し」という単語は「性的対象としての搾取」という性質を内部に宿している。アイドルでもない一般人を「推し」と表現することは、ライトな好意に見えて、当人を勝手にアイドル視し、「消費」しているということになるのかもしれない。今は使われなくなった「萌え」というニュアンスも少し含まれているだろう。無色透明な単語はありえない。近接する単語同士はある程度のニュアンスを共有している。

言葉をすり替えることである行為を無害化しようとする工作はこれまでいろんな場面で行われてきた。たとえば河瀬直美監督の「捏造」と言うべき事案に対してNHKは「不適切字幕」という言葉をあてがったし、大本営は旧日本軍の「撤退」を「転進」と呼び、不利な状況を国民には伝えなかった。いつしかアイドルの「脱退」も「卒業」と呼ばれ、彼ら彼女たちには華々しいセレモニーが用意される。中身は同じでも美辞麗句によってその実態が隠されることがあるということは忘れないほうがいいだろう。

以前、アイドルの推し活をしている女友達に「推し」とはなんだと思うか聞いたら「希望」と言われた。すてきな回答である。そして彼女は「『推し』を恋愛対象と思うことはない」と続けた。アイドルの「推し」はあくまで距離超越的な境地にいて、恋愛というような世俗的な関係性は無化されるというのである。これは、アイドルの字義通り「偶像的」であり「神聖視」であり興味深い。

「相手と恋愛関係になると、嫌な部分も見えるでしょ? 直してほしいところとかあまり好きになれないクセとか。でも『推し』とはそういう関係にならないからきれいな部分しか見えない。だからいいんだよ」と彼女は言った。
「見えなければ、なにやっていてもいいということ?」と私が訊くと「知らないほうがいいことだってある」と即答された。
「要するにさ、『推し』に幻滅して傷つきたくないのよ。だから適度な距離で、応援するくらいがちょうどいいの」

傷つきたくない。それはある意味で、現代ユースカルチャーの感情を反映しているように私には思えた。「推し」という言葉を用いることによって、それ以上は踏み込まないというデタッチメントの距離感が生まれる。便利な言葉が、傷つくことに対する「予防線」としても機能しているのである。ヘンリー・ジェンキンズ須川亜紀子はSNSの登場によってかつては別世界の存在だった有名人にメンションを送れるようになり、アイドルと会える握手会の登場によって、文化感覚から距離感が喪失したことを指摘している。「推し」という言葉は、人間関係での踏み込みを拒絶する態度であるのと同時に、他人との距離を実感する機能を持っている。現代は、かつて存在した「距離」を知らない世代が「尊い」や「推し」という言葉を積極的に口にしている。これはもしかしたらポストモダン(ハイパーモダン)におけるバックラッシュ、すなわち喪失した「距離」を回復しようとする心性の表れなのかもしれない。

我々は誰かを推すために生きているけれど、それはもちろん誰かに命じられたからそうしているわけではない。けれど、「推す」という言葉を使うとき、そこには少なからず、「関係を持ちたいけれど踏み込みたくない」という微妙な気持ちの機微があるような気がしてならない。同時に失われてしまった方向感覚を回復したいという切実な祈りも感じるのである。私のnoteを推せるという人は「いいね」ください。会いに行きます。

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