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サブスクはサブカルを救うか(2020.3.27)

最近CDを整理する機会があった。20代のころは狂ったようにCDを買っていたので数回しか聴かずに段ボールの中に詰め込んでしまった作品もあるため、掘り当てるたびいちいち懐かしくなった。ゼロ年代にはサブスクがなかったから最先端の音楽を入手するにはAmazonやアングラサイトで、身銭を切ってフィジカルを買うしか方法がなかった(もちろん地方のレンタルショップには尖ったレコードは置かれていない)。購入前に視聴することもできなかったから実際に聴いてみてがっかりするようなことが何度もあった。今思うと恐ろしく費用対効果の悪いことをしてたなあと思う。それしか方法がなかったとしても。

最近は国内音楽もサブスク解禁が進んできていて、積極的には買わないであろうミュージシャンの音楽を聴いてみたりしている。J-POPによる未開拓マーケットはふだん音楽を聴かない層にあるのではなくて、音楽を聴くけどポップスを敬遠してるリスナーたちの中にあるかもしれない。

再三指摘されているように、サブスクには当該ミュージシャンがある種の罪状で検挙された途端に作品がすべて聴けなくなってしまうというリスクがある。サブスクから消えてもCDを買ってあれば音源が手元に残っているわけだけど、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』の“ファイアマン”みたいな役割の人がいて、当該CDを裁断するために一軒一軒、家探しに来るようなそんな妄想をいつもしてしまう。

「貴様! 電気グルーヴの『DRAGON』を持ってるな?」
「それだけは…」
「石野卓球の『BERLIN TRAX』もだめだ」

みたいな。

それに、結婚式などのある種のイベントではJASRACが目を光らせていて、原盤がないと曲を使用できないらしい。結婚式という、人生における一大イベントで流したい曲があるのにCDを持っていないなんてことはこれからたくさんのカップルに起こりそうではある。まあ式のためにCDを買えばいいんだけど、好きな曲が収録されているアルバムを買っていくとけっこうな枚数になりそうだ。で、それは、時代が称揚する「物を減らそう」というアンチ資本主義/ミニマリズム的考えとは真っ向から対立してしまう。僕は原理主義者ではないので、ミニマリズムとは適当に距離を置きながらも参照点の一つとしていて、近寄りすぎず離れすぎずという、バランサー的役割を担ってもらっている。思想を丸ごと拒絶するのでなく、適切に距離を取るという感覚があらゆるイデオロギーに対しても有効なんじゃないかと思っているからだ。もちろん、イデオロギーの内部からイデオロギー装置それ自体を批判することはできない。マルクス主義が退潮したあとでないと「マルクス主義とはなんだったのか」が語れないのと同じように。

10年代は終った。この10年はとにかく「ジャンルのクロスオーバー」ということが言われたディケイドだった。CDやレコードが売れない。デジタルリリースのみというミュージシャンも増えている。代わりに僕らはサブスクで“プレイリスト”を聴く。それはロックやヒップホップやトラップといった、ジャンルのプレイリストかもしれないし、ジャンルごちゃ混ぜのトップチャート(それはオリコンチャートとはまるで違う)であるかもしれない。このトップチャートを聴いていて思うのは、それこそすべてが混交しているという感覚である。そこは音楽のサラダボウルであり、混沌としたアナログなアナーキズムがある。だけどこのようなプレイリストを聴いている若者たちが、レディメイドにとらわれず、新しい音楽の地平を切り開いていくのは必然のように思う。ミュージシャン、ジャンルといった「壁」が倒壊し、残ったのは「音楽」という大きな主語だった。それがサブスクの登場した10年間で起こった地殻変動であるように思う。巨大な地割れの中から新しい「Z世代」が地表に姿を現している。雑誌からWEB、ヴィンス・ステイプルス/Jハスからビリー・アイリッシュ、レコードからサウンドクラウド。インターネットが音楽の流通スタイル、消費形態を変え、デジタルネイティヴたちが電子の世界で伸び伸びと歌っている。

学生時代からずっとメインストリームには背を向けてきた。だけど社会を大局的/政治的に見られるようになって、メインストリームこそが時代を反映していることに敏感になった。たとえば環境問題。昔から環境問題については言及されていたけど、それに対して音楽のシーンが強く応答していたとは思えない。作品の良否を問わず、レディオヘッドが『THE KING OF LIMBS』(2011)、アノーニが『HOPELESSNESS』(2016)を発表しても世間はまだ盛り上がらなかった。だけど、10年代後半に、インディから素晴らしい進化を遂げたTHE 1975や、Z世代のビリー・アイリッシュが「気候変動」をテーマに作品を発表し、日本では『天気の子』が上映され、国連の気候変動会議ではグレタ・トゥーンヴェリが無責任な大人たちにキレて演説をぶちかました。そのときに一緒にトゥーンベリと写真を撮ったナオミ・クラインは気候変動を政治・経済の問題だと言っている。つまり、気候変動を解決していくことが諸問題の解決の基盤であると言ったのである。だけど世の中は彼女の態度に冷や水を浴びせ、神経質なまでにバッシングをした。そこにあったのは本質的な議論ではなく、キャラ/人格への過剰な反発だった。それを見た僕は、自分たちには、科学的な議論や民主主義や核は早すぎるんじゃないかとすら思ってしまった。そもそも民主主義はキリスト教を母体として産み落とされたイデオロギーであり、民主政は不完全な政治形態である。文明がある程度発展した国でないと適切に運用するのは難しい。

だからこの10年は、ポップもアンダーグラウンドも気にせず聴くようにしてきた。しかしもはや少年のときのように屈託なく音楽を聴くことはできない。純粋な音楽体験なんてものはない。僕は自身の「音楽」というカテゴリーに政治を持ち込んでしまった。もっと言うと、経済も思想も。日本のポップスは政治の歌を歌わない。なぜなら音楽に政治を持ち込まないことがルールのようになっているからだ。この意識は、数年前のフジロックで前景化したように多数の人々に共有されている。J-POPは「安倍やめろ」とも「憲法を守れ」とも言わない。と言うより言えない。だからそれらのイシューは主にラッパーに委嘱されている。格差が広がり、国会が軽視され、言葉が軽んじられた10年代がラップの年だったのもその理由によるだろう。

オーバーグラウンドでは大きな地響きが鳴っている。アンダーグラウンドに潜っていた人たちも気になって這い出してくるような。そしてそこにはみんな違う音楽を聴いているけど同じ地面を踏んでいるという共感覚がある。空気が震えて、なにかが起ころうとしている。それは音楽、映画、文学といった表現の地平から来る。フロイトを援用すれば、抑圧されたものは作品として回帰するのである。フクロウが黄昏に飛び立つように、認識はいつも時代に遅れる。とりあえず、ここからなにが起こるのかを文字で記録してみることにした。このページや議事録やレコードがファイアマンに焼かれてしまっても、頭の中で考えていることは焼けない。頭の中で言葉を持ち歩こう。このページは、忘れやすい自分の備忘録。適当にお読みください。

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