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スーパーセール・リアリズム(2021.12.17)

少し前にブラックフライデーがあった。私はセールがとても好きで、安く買うことに価値を見出す、典型的な消費者(=キャピタリズムの奴隷)である。別にお金に困っているとかそういうことじゃなくて(あまり持ってないけど)、「資本主義ゲーム」に参加しているような感覚でいる。このゲームには現実の通貨が使われるため、ゲームセンターよりスリリングである。競馬が100円の馬券1点でも楽しめるのは、価値のリアリズムによるものだろう。ギャンブルには「資産が増えるかもしれない」という期待だけでなく、「失いたい」というアンビバレントな願望も潜んでいるような気がするのは自分だけだろうか。「成功の哲学」の裏には「破滅の美学」がへばりついている気がする。ハズレがあるから当たりがあり、ハズレだけを消すことはできない(「ハズレ」だけを消したら「当たり」は「当たり」でなくなる)。それらはシニフィエとシニフィアンの関係のごとく切り離せないものなのである。

ブラックフライデーではDTM関連の商品をいくつか購入したけれど、DTM業界の値段設定はいまだによくわからない。事あるごとにセールしてるし、値下げ率も半端ではない。定価20万超えのセットがアンダー1万で買えることもあるし、限定価格だと思ったらそれが定価だということもある。要は「常に閉店セールをしている店」みたいなものなので、「割引率だけに気を取られてはいけない」というのがクレバーな消費者としての心構えである。提示されている価格が適正であるかどうかについては、冷静に時間をかけて見極めないといけない。かつて巨大掲示板で「半年ROMれ」という心得があったけれど、あれは「選球眼を持て」と言い換えることもできるはずだ(違うかもしれない)。ボール球をファールしてしまったらワンストライクなのである。

個人的には新しいモノのみを買っているというより、「新しいモノを手に入れた自分」という「イメージ」を込みで買っている。お金を払ってモノを買うという行為は、モノとモノが行き交うだけではない。そこにはモノを超えた霊的交通(ハウ)があって、おそらくその行為を通じた「コミットメント」という感覚が私は好きなのだと思う(クロードレヴィ=ストロースはハウをその無意味さゆえに「浮遊するシニフィアン」と呼んだ)。新しく買ったモノを使う、次数の繰り上がった自分のイメージは欲望のガソリンとなって現在の自分を駆動する。

けれど、セールでばかり買い物をしていると、定価で買うことに抵抗を覚えるようになるのは弊害であるように思う。社会のいたるところで、相手に対して正当な対価を支払わなくなっているのは消費者マインドの結果である。消費者は1円でも安く買いたいと願い、資本家は1円でも安く労働者を使おうとするという点で彼らは相似形をなしている。教育現場では、「教師や学校がいかに良いサービスを提供したか」という観点から「評価アンケート」が取られる。教師が、学生から意見を集めて授業を改善していくことはもちろん必要だと思うけれど、学校は予備校ではないので、学生が教員を「評価する」という制度はあまりよくないものじゃないかなあと私は思っている。誰でも「お客様」になれる資本主義社会における消費者マインドの浸透はかなり深刻である。自覚的であろうとなかろうと資本主義に深くコミットしてしまっている私たちはそのあとどうしたらいいのだろう。

何事にもコミットせず、すべてを冷笑する態度(=シニシズム)はインターネットの世界で当たり前になっているが、これは20世紀に登場してきた(安全圏から石を投げるそのシニシズムは「反出生主義」へと通じている)。この傾向は、理性に基づいて論理的に批判する人間的態度を捨て、感情や脊髄的反射で物事を判断する動物への退行を意味している。ネット上や日常会話に氾濫する記号としての「イイネ」や「それな」はそれ以上の言葉を必要としないため簡単に意思表示ができるが、一方でコミュニケーション回路を焼き切ることを意味している。「ヤバい」という単語だけで会話することがある程度まで可能である点は日本語がハイコンテクストである所以だけど、それだけでは他人の気持ちを理解することも、政治を担うこともできない。

近年、よく聞かれる「ポストヒューマン」という言葉はある意味で「人間の終り」をも含意していて、アレクサンドル・コジェーヴは、社会主義崩壊後の民主主義社会にそれを見た。そこでは、人間が食欲や性欲のままに生活していて彼はその「動物化」を「人間の消滅」と呼んだのだった。「消滅」とは生物学的に人間が滅びるということではなく、思想的そして倫理的に「人間」でなくなることでもあったというわけだ。

ドゥルーズ=ガタリは今でいう加速主義者で、それは『アンチ・オイディプス』の中に確認できる。彼らが議論の対象とするのは「欲望」である。欲望は脱コード的であり、規制の元ではアナキズムとして現れる。自分たちは欲望を手放すことができない。ならば多様な方向へ散乱し、分裂症的に流動していく資本主義の流れを加速していこうというのが彼らの主張だった。資本主義における欲望の流れを加速することで、欲望が人間以外のものと連結し、人間は人間を超えていくというのである。システムの内部から加速することで皮膜を突き破ろうとする加速主義的運動が、現在のところ、ポスト資本主義の一つの解になっているのは確かだけれど、具体的なビジョンはまだ描かれていない。

一方、マルクス・ガブリエルは資本主義を批判しない。どうするかというと、問題点を把握しながらもその内部にとどまり、みんなで協力することを求めるのである。資本主義には問題が山積みである。けれど「資本主義の終わりを想像するよりも歴史の終わりを想像するほうがたやすい」とマーク・フィッシャーが言ったように、私たちは現在、資本主義以外のモデルを思いつけずにいる。ならばその中にとどまりながら、時にノり、時にシラけるということをしながらお互いに助け合っていくしかない(彼はこれを道徳的資本主義と呼んだ)。

DTM関連のソフトをいろいろ買って気づいたことがある。それは「初心者ほど高いソフトを買え」ということだ。高いソフトを買うと豊富なプリセットがあって、エンベロープやフィルターなど、初心者にとって難易度の高いパラメータがすべて設定されているおり、それらをチェックするとかなり勉強になる。仕組みを知りたかったら分解してみるのがよい。小学生たちがシャープペンシルやボールペンをその手で分解するみたいに。音がどのような仕組みで鳴っているのかを知るためにはやはり機能が充実している上位機種の中身をいじくり回すのがいちばん良いんじゃないかと思った。ソフトはどれだけいじっても壊れない。安心してパラメータをいじりまくろう。

「セールで買う」行為は自分にとってゲームの一部であるけれど、ゲームの特殊ルールを現実原則に適用してはいけないことは承知していて、作り手に敬意と対価を払っていこうとする「道徳」を自分たち一人一人が持てれば、このやるせないシステムの中でももう少しがんばれそうな気がする。大切なのは、「一円でも安く買いたい」気持ちはあるけど「そうでない場合もある」というヒューマニズム的抑制だと思われる。とかまじめなこと言って、これから始まる冬服セールを楽しみにしている今日この頃である。


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