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失われた物語の中で|『君たちはどう生きるか』論考

吉野源三郎の同作にインスピレーションを受け,オリジナルストーリーとして制作された宮﨑駿の最新作である今作の評価は真っ二つに分かれることになった。これまでのジブリにあるような「物語」としての側面は大きく後退し,アニメーターとしてのパーソナルな表現が前面に押し出されている結果だろう。『風立ちぬ』で引退を宣言した宮﨑がそれを撤回して監督した今作はあまりに自由で伸び伸びと作られている。次世代へのメッセージを含んだ「遺書」とすら呼べそうである。アニメーター宮﨑の自己開示,それは物語というよりイマジネーションに満ちた混沌だった。フェデリコ・フェリーニが『8 1/2』で撮りたかったものを,宮﨑はアニメーションで表現したように思える。

冒頭では東京が燃えている。ジブリが自家薬籠中の物としている「火」の描写は『風立ちぬ』から地続きである。そしてそれはたとえ空襲による火災であったとしても,「偉大な破壊」(坂口安吾)であるがゆえに美しい。病院にいる母のもとへ走る主人公・眞人はもちろん宮崎駿その人である。履き物を慌てて脱ぐ仕草や階段を駆け上がる動きなど,アニメーションのお手本のようなシークエンスには誰もが目を奪われただろう。しかし,病院の火災により眞人の母は命を落としてしまい,彼は疎開することになる。眞人が東京から離れると画面から戦争の影が消える。まとめると,前半が現実パート,後半が虚構パートというふうに切り分けることができるだろう。そして現実と虚構の往還,すなわち児童文学によく用いられる「行きて帰りし物語」の形式によって物語が展開する。「行きて帰りし物語」では「向こう」へ行くために「通路」が必要である。それらは『となりのトトロ』では「小径」,『千と千尋の神隠し』では「トンネル」として表現されてきた。

今作においては「塔」が「通路」であるのと同時に宮﨑にとっての重要なメタファーとなっている。塔は疎開先の森の中にひっそりと建っているがこれは人が作ったものでなく,空から降ってきたものだという。人智を超えた存在である塔はおそらく「物語」の暗喩だ。そしてそれを人が建造物すなわち言語や法体系でコーティングしている。神の言語で書かれた物語を私たちが読むためには,それより低次元の言語や体系を必要とするからである。

眞人が義母を探して通る道はまるで『となりのトトロ』に出てきた場面と酷似している。これだけでなく,『ハウルの動く城』の扉,『崖の上のポニョ』の船の墓場など,過去作品からの引用が多く見られる。それらは「ジブリらしさ」というサービス的な目配せではなく,明らかにコンシャスな反復である。

特徴的なのは,眞人が異世界へ進んでいく際,そこに「老女」が同伴する点だ。『となりのトトロ』も『千と千尋の神隠し』も少女の成長譚という性格を持っているため,「大人」は彼岸へは行くことができない(サツキとメイの父親にトトロは見えないし,千尋が冒険している間,両親は意識を喪失している)。しかし,今作で宮﨑は屋敷に侍女として仕える老女を登場させた。彼女はキーパーソンであり「観測者」あるいは「守護者」としての役割を果たすことになる。眞人を映す「カメラ」であり,物語を受容する「観客」でもある。彼女は塔の奥へ進む眞人に「罠」という言葉を使うが,このワーディングはやや奇妙である。罠というのは,それを仕掛ける主体なしに存在しないためである。老女は「大人」でありながら,異世界への分水嶺で「罠」を仕掛けた「何者か」の存在を嗅ぎ取っているのだ。

おそらく多くの人は「罠」という単語から2006年に劇場公開された『王と鳥』(1980)の「気をつけたまえ。この国は今,罠だらけだからな。」という宣伝文句を思い出すだろう。識者によって再三指摘されているように本作は『王と鳥』(さらには『やぶにらみの暴君』)をベースにしていることを念頭に置くと「罠」という発語に違和感はなくなる。ベルトルト・ブレヒトの「異化効果」すなわち,観客が客観的かつ批判的に鑑賞する趣向が凝らされているのだ。

老女は「アオサギ」が喋る様子を目撃するが,『王と鳥』における「鳥」が人語を解するトリックスターであることを考えれば,これもまた自然である。アオサギが喋る言葉は眞人にしか聞こえないはずだという従来の「約束」は本作において反故にされる。「インコの兵隊」も老女だけでなく,現実世界の「大人」たちに「バケモノ」として「認識」されている。「喋るアオサギ」や「インコの兵隊」が一般人に「見えている」とすれば,彼らはこの現実世界に存在するなにかの表象だと推測できる。観客に委ねられた解釈を巡って今後もさまざまな論が書かれることになるだろう。

序盤のアオサギは不気味な存在だが,その「着ぐるみ」を剥がしてしまえば無能な中年男性(=サギ男)である。翼を奪われたサギ男は粗忽でコミカルな存在,すなわち道化と化すのだ。しかし,アオサギは眞人を異世界へと導くトリックスターであり,この地味さは拍子抜けしそうだ。彼は大きな魅力のないキャラでありながら,ポスターに採用されるほどの存在感を持っているため,イメージを剥ぎ取られギャップに戸惑った観客も多かっただろう。そんなアオサギは最後に眞人と「トモダチ」になる。「トモダチ」という言葉はセンチメンタルだが,敵でも味方でもないアオサギは「物語」への「水先案内人」なのだ。物語を信じる宮﨑にとって欠かせない,友人のような存在だろう。

眞人たちが地底世界へ潜り込むとそこにはインコ帝国が築かれている。この「帝国」はおそらく「スタジオジブリ」だろうが,同時に宮﨑駿の精神世界である。そこでは生者と死者が行き交い,過去と未来が混ざり合っている。過去の作品世界が引用としてでなく,メタフォリカルに重なり合いながら存在しているのだ。後半の虚構パートから物語はロジカルであることをやめ,ギアを一段階変える。すなわち「考える」のでなく「感じる」ような展開へと舵を切るのだ。批評や解釈はあとからついてくる。まずは宮﨑の世界に浸ろう。

「わらわら」という存在が地底から「地表」を目指して飛んでいくシーンがある。わらわらはおそらく「受精卵」あるいは「物語のインスピレーション」だ。生命や物語は,厳しい淘汰圧を耐え抜いたものだけが存在しうる。それを食べる「ペリカン」たちは,生命や作品に「カネ」の匂いを嗅ぎつけた資本家であり,批評家であり,一般大衆でもあるのだろう。ジブリ作品にしてはやや造形の書き込みが足りないような気がするが,「創作」に関するプリミティブな考え方に触れることのできる重要なシーンである。

地底世界には,「塔」(=物語)の中で姿を消した白髪の「大叔父」が登場する。彼はおそらく宮﨑駿本人だろう。だとするとここで矛盾が生じることになる。多くの観客は眞人を宮﨑本人だと思っているし,この文章もそれを前提に書き進めてきたからだ。しかし,実母の「ヒミ」,老女の「キミコ」が若かりし頃の姿で地底世界に存在していることから,その矛盾は問題視しなくて良いだろう。眞人は「過去の宮﨑」,大叔父が「現在の宮﨑」だという推論はコロラリーとして成り立つ。

インスピレーション源の『君たちはどう生きるか』は「叔父」と「コペル君」の対話がベースとなっているが,本作では叔父が大叔父,コペル君が眞人に翻案されている。宮﨑は脚本をツイストし,叔父とコペル君のアイデンティティをも縫合してしまったのだ。それは「過去の自分」と「未来の自分」の対話でもあったはずである。すなわち本作は徹頭徹尾,宮﨑による内面の吐露だ。それは私たちに説教をする内容の映画ではない。むしろ「自分はこう生きた」という宮﨑自身の生の証明になっているように感じる。いい画を容易に描けるようになった宮﨑が,あえて背景やパースを崩して表現したかったものは,あまりに個人的実存だったが,国民作家によるそれはあまりに普遍性を獲得している。日本アニメーションの巨匠に許された自由な自己表現は,難解さを纏いながらも観客の心奥に訴えかけるものでもあったのだ。

原作がジョン・コナリーの『失われたものたちの本』だと噂されていることからわかるように,本作は児童文学としての性質を持っているため,むしろ子どもたちのほうが純粋に冒険譚を楽しめるのかもしれない。ロジックやクリティカルシンキングに馴染んでいない子どもたちは映画の混沌を混沌そのものとして受け止めることができるだろう。そんな純粋な作品を86歳にして作ってしまう宮﨑駿はやはり天才的な作家である。

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