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知は立ったまま眠っている(2021.12.24)

昔流行った『電車男』の中に、映画に疎い女性エルメスへオタクである電車男が『マトリックス』を勧めるエピソードがあった(と記憶しているけど違うかもしれない)。『マトリックス』公開当時の99年は、「バレットタイム」(タイムスライス、マシンガン撮影)を用いて撮影された、あのポーズをみんなで真似していた。今だったらTikTokやリールで使い回されるバズなネタになっていただろう。

電車男による『マトリックス』の選択を大学生だった自分は受け入れることができなかった。「オタクならもっと他に紹介する映画があるだろう」と思っていたからである。映画に関して中途半端に知識を持っていたスノッブな自分はメジャー映画を選ぶということに対して反発していたのだ。けれど、あのチョイスは最適解だったと今なら思う。『マトリックス』はさまざまな角度(プログラムや精神分析など)から解釈することができるけれど、表層的には専門知がなくても楽しめるように作られている。その上で予備知識があれば、より重層的に見ることのできるという、非常にパースペクティブの広い作品なのである。だからオタクが見ても、2進法がわからない人が見ても楽しめる。映画ファンと一般人の溝を埋めるような作品と言えるだろう。

先週の金曜日に最新作『マトリックス レザレクションズ』が公開されたので、初日の仕事終わりに見てきた。「レザレクション(復活)」というタイトルが示しているように、『レボリューションズ』(2003)で死んでしまったトリニティ(キャリー=アン・モス)を甦らせるというストーリーであるが、それは、数年前に両親を亡くしたラナ・ウォシャウスキー監督が必要としていた鎮魂の物語かつ儀式だったのかもしれない。語るほどの内容ではなかったけれど、誰かにとっては大切な意味を持つ作品だったように思う。

『レザレクションズ』を見たあと同年代の人に「『マトリックス』最新作見た?」というトピックを振っても反応はいまいち芳しくなかった。それどころか『マトリックス』自体を見ていない、という人が多くて驚いた。マトリックスポーズを再現できても映画それ自体を見ていないという人は世の中にたくさんいるのだ。サビは知ってるけど全部は歌えないポップスが数あるのと同じで。とするとエルメスが『マトリックス』を見ていないという事実はとてもリアリティを持っているし、知名度がある映画をおすすめするという電車男のチョイスは理にかなっている(あれが『ショーシャンクの空に』とか『レオン』だったらもっと興醒めしていただろう)。

先日友人と飲んだときに「何事も一番は決めにくい」という話になった。一番好きな映画、一番好きな食べ物、一番好きな俳優。どんなジャンルでも「オールタイムベスト」は決めづらい。それは相手によって変る内容のものでもあるからだ。たとえば映画ファンとの会話で話題にあげる作品と、映画を見る習慣のない人との会話で触れる作品は異なる。いま私がここに書いている内容だって、媒体が違えば書き方もスタイルも変りうる。それらは読み手や聞き手との関係によって流体的に変化する。だからベストで絶対的な一本を選ぶというのは難しいのだ。唯一解があるわけではなくて、場面に応じた最適解があるだけなのだろう。自分は昔から「その人を知るためには本棚を見ればいい」と思っている。作品の順列組合せによってその人がどのような人かが浮かび上がってくる。「私」とは自己紹介する言葉の中に表れるのでなく、「私」の思想や所有物や趣味嗜好などの外延をぐるぐる周回しながらなんとなく輪郭線を確定させていうようなものなのではないだろうか。

結論として彼はベストに『バック・トゥー・ザ・フューチャー』を挙げていて、私はナイスチョイスだと思った。マニアックでないし、映画史に残る金字塔でもある。

先週の<M1グランプリ>は「錦鯉」の優勝だったけど個人的に好みだったのは「真空ジェシカ」だった。毎年、<M1>には会場の空気を変えるようなダークホースが混ざっていて今年はそれが彼らだったように思う。ネタの完成度とクオリティが他のコンビとはレベルが違っていた。大笑いがあるわけではないものの、マイナーポエト的ポジションから小笑いを絶えず観客から引き出していた姿が優等生的だった。それなのに点数は奮わなかった。暫定的に1位であったものの、追い込み勢の「末脚」に差されてしまったのだ。

点数を低くつけた理由について、審査員の上沼恵美子が「センスはよかったけれどところどころわからなかった。勉強させてもらいます」というようなことを言っていた。この「ところどころわからなかった」というのはどれを指していたのだろう。たとえば二進法は現在、理系・文系問わず「数A」の内容だから、若い人は馴染みがある(というよりこれを知らないといろいろ支障がありそうな時代である)。けれど、ある年代から上ではこれを教わっていない(自分も学生時代には教わらなかった)。だから年齢層の高い人たちに二進法のネタをカマしても受けないのは当然である。理系には馴染みのある「キムワイプ」ネタが文系に通じないのと同じだ。

だからさまざまな視聴者がいる場での漫才ではみんなが知っている「最大公約数」的なネタが求められてしまうのであって、難しい箇所が1つもない錦鯉のネタがウケるのはよくわかる。誤読のリスクがなく、簡単ですぐ笑えるからだ。思い返すと今年の決勝は大声やオーバーリアクション等の「勢い」で突っ走るネタが多かった気がする。それで笑えるならもちろんそれでいいけれどそれらは自分にあまり合わなかった、とただそれだけの話である。

少し前の『アメトーーク』の「家飲み楽しい芸人」で霜降り明星せいやが「人間」を「酒袋」に例えて笑いをとっていたけれど、たとえばあの場で「カフカかよ」というツッコミはウケないだろうと思う(あれはどう考えてもフランツ・カフカの「なぜ、人間は血の詰まったただの袋でないのだろうか」に対するパロティである)。というのもみんなが知らないことは「お笑い」の対象にならないからだ。「空気を読む」ということはその場の最大公約数を考えることでもあるのだろう。

自分は会話時のレスが遅いけれど、それは上のようなシチュエーションになったときに最適解を探すのに少し時間がかかってしまうからである。「酒袋」というワードに対しては「フランツ・カフカ」や「新しいブドウ酒は新しい革袋に」という聖書の一節などが頭をよぎって、でもそれを言えずに思考停止してしまうことがある。自分が他人より知識を持っているというようなことを言いたいのではなく、絶対的に「ベスト」の解答も大切だけど、「その場に合った」解答を提出できる能力が「空気を読む」ということなのであれば、それを求められる「お笑い」のムードが日本中を覆っているのもむべなるかなと感じたのだった。

真空ジェシカにはとても期待している。できれば場に迎合することなく、知的で尖った笑いを追求してほしい。その姿勢でM1を優勝できたとき初めて、「お笑い」と「教育」の幸福な結婚が実現するだろう。私たちの袋には「血」だけでなく「知」も詰まっているはずなので。

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