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サウンド・オブ・メダル(2022.1.7)

正月。なぜか自分は地元の友人とゲームセンターにいた。ゲームセンター? なんと蠱惑的な響きだろう。自分が小学生のころは「ゲームコーナーは保護者同伴なら可で、ゲームセンターは保護者同伴でも行ってはいけない」という規則があった。当時は「ゲーム」に対する評価が定まっていなかったため、とりわけ規則が厳しかった気がする。コンシューマーゲームが発売されると大人子供関係なしに熱狂したけれど、新しいがゆえにそれらに対する「副反応」も多くあった。香川県みたいに、ゲームに対して強い抵抗を持つ家庭も少なくなかったのである。子供がゲームに夢中になってしまうと、勉強しなくなることに加え、目が悪くなり、外で遊ばなくなるなどいいことが危惧されていた。

現在は、あの頃以上に誘惑が多くなって、可処分時間の取り合いになっている。我々の持っている手持ちの時間は「1日24時間」と変っていないのに、「できること」やスマホで浪費している時間が増えてしまった。

スマホを使って、ゲームするのか語学を勉強するのかあるいは映画を見るのかは基本的に個人の自由である。けれど自由すぎるがゆえに自分は不安になる。「みんなスマホでなにしているんだろう?」と、他人の画面を覗き込みたくなる。昔みたいに、できることが限られているときはそんなことなかったけれど、自由度が増してなんでもできるようになった結果、なにをしていいかわからなくなってしまった感がある。周りがなにを選んでいるのかを確認しながら自分の立ち位置を決めていくような振る舞いは逆に窮屈だ。今の子供たちが、小さいころから「自由の刑」に処されているのはなかなかしんどそうだけどまあ上手に付き合っているのだろう。言うまでもなく「自由」には「責任」がセットになっている。「自由」であるがゆえに人間は「孤独」であり、常に「不安」だ。

「禁止事項」は子供にとって絶対遵守であり、破ってはいけないルールである。それはある種の「自由」を閉ざす。山や川は命を落とす危険性のある場所でもあり、大人が子供へ命令するときの「禁止」は多くの場合、「危険から身を守るため」になされる。

人間は山河を開発する。藤田省三はその開発が「私たち人間の感覚の世界に構造的な終焉をもたらしている」と言う(「現代文明へのレクイエム」)。それによって「厳しい存在に対する感受性の欠落」や「厳しさと優しさの両義的共在に対する感得能力の消滅」を憂いている。自分たちの周りにある「自然」はいつのまにかレジャー施設へと形を変えつつあり、かつて獲得できたはずの能力は開花する前に摘まれてしまっているのかもしれない。

あらゆる場所がレジャー施設になっていくと同時に、ゲーセンも特別な場所ではなくなっていった。ゲームがスマホで遊べる時代でも人はゲーセンに通っている。多くのゲーセンはメインフロアをクレーンゲームが占めているが、それはスマホで遊べないからであることに加え、ルールが明快でわかりやすいからだ。けれどこれはクレーンゲームが簡単であることを意味しない。

高校のときからゲーセンには通っていたけれど、主に「音ゲー」をプレイするだけでクレーンゲームには近寄らなかった。話題のキャラクターグッズにもお菓子にも興味がなかったからだ。ゆえにこの年までクレーンゲームスキルはほぼ0に近く、成功体験もなかった。けれどクレーンゲームにハマってる友人と共にそれらをプレイすることで楽しさが少しわかった。

クレーンゲームの筐体内にほしい商品があるわけではない。友人は「ほしいものを取る」というよりは「ゲームを楽しむこと」に力点を置いている。彼はクレーンゲームをプレイしたいだけであり、景品は申し訳程度の些末な結果にすぎないのだ。

100円で獲得されてしまったら赤字になるから店はシステムに確率をプログラムする。アームが対象を「掴む力」とゴール地点まで「運ぶ力」を制御することで、一回では商品をなかなか取れないようになっている。ゲームが商売として成立する以上、胴元が常に勝つようになっているわけだが、プレイヤーはその打開策を探す。それは一つの「知的作業」であり、難しければ難しいほどプレイヤーは目の前の状況を見つめ、解決策を模索することになる。

成功体験は、成長過程において非常に大切なものである。その有無によって気の持ちようが異なるからだ。「いつか必ずできる」という前向きさがないと何事も失敗する蓋然性が高くなる。なぜなら「やっぱりできなかった」と現状肯定をする考えが予防的かつ予言的に頭をよぎるからである。それは私たちの「跳躍」を阻む。後ろ向きな勝負は良い結果を呼ばない。

今回は高難易度のクレーンゲームにはじめて挑戦したけれど、これこそ「いつかは取れる」という強い思い込みがないと攻略することはできない。数千円を賭ける覚悟が必要だ。一回の操作で対象商品が元の場所から動かないことも、アームが空振りすることもある。身銭を切りながらその貴重な一回に賭け金を置いていくことは精神を摩耗させる。プレイしていると「埋没費用(サンクコスト)効果」(=コンコルドの誤謬)という単語が頭をよぎる。撤退すべきかそれとも投資するべきか。技術がなければこれ以上の投資は損失を大きくすることにしかならない。かといって、ここまでの投資額を考えると撤退をもったいなく感じてしまう。ここの「勝負どころ」で前向きでいるためには過去の成功体験を前提とした成功への祈りがどうしても必要なのだ。

「引き際」を見極める訓練としてクレーンゲームは最適である。けれど時には投資してでも「成功体験」を持っていたほうが良い。これはあらゆることにも言える。発言をすべて否定されたら話す気がなくなってしまうし、バツばかりつけられたら解ける難易度の問題でも思考を放棄するようになってしまうだろう。コップの中に入れられたノミは自身の持つジャンプ力で外へ出られるのに、コップにフタをされたら、ジャンプ力が低下してしまうと言う。限界を決めてしまうのだ。その場合どうすればよいか? それは、もう一匹のノミをコップの中に入れれば良いらしい。もう一匹のノミはフタをされている状態を知らないため、簡単に外へ出ることができる。それを見たファーストのノミも無事に脱出する。

「生涯教育」という概念を提唱したポール・ラングランは『生涯教育入門』の中で、「生きるということは、人間にとって、万人にとって、つねに挑戦の連続を意味する」と言っている。人生には老齢や病気、人との出会い、最愛の人の喪失などの個人的事象から、戦争や革命に至るまで、あらゆる「挑戦」が存在しているのだ。

というのはまあ大げさにせよ、時には賭け金をベットして新しいことに挑戦する勇気を持たなくてはいけないのかもしれない。コンコルドの速さで変化する現代にあってはなにが正しいかが目まぐるしく変わりゆく。それにキャッチアップするためには受け身でなく、自ら学び、挑戦していく姿勢が必要だろう。

結局、自分には無理だと思っていたクレーンゲームの商品が取れて自分としてはけっこう満足した。もちろん多くの勉強代を支払ったけど得たものはお金ですぐには買えない。今年はなるべく多くの「はじめて」に挑戦していきたい。今年もどうぞよろしくお願いします。


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