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大学生よ、森見登美彦を読むな

ぜんぶ、登美彦氏のせいだ

大学生は森見登美彦作品を読んではいけない。

これは大学入学時のガイダンスで真っ先に説明するべき超重要事項であるはずなのに、このようなガイダンスを実施している大学の話は聞いたことがない。

大学の入学ガイダンスではいつも、退屈な大人が、退屈な話を、退屈そうな大学生に聞かせている。「ポートフォリオを作成して学びのプロセスを可視化しよう!」なんて誰もやりたくない形骸化したお題目を、登壇者本人も辟易しながら話している。

そうじゃない、そうじゃないんだ。

ポートフォリオを作ったって、大学生は学んだ内容を片端から忘れていく。サークルはほどほどに、なんて言ったって、大学生は朝まで安酒を飲み明かす。講義の大切さを語ったって、彼らは理由もなく欠席する。「真面目じゃない」ということにアイデンティティを見出して、ただただ無為に時間を捨てる。

しかし、まことに残酷な事実がここにある。

それは、『真面目じゃない』というアイデンティティは、誰にでも取得可能なものである、ということだ。

多くの大学生が自身にタグとして付与している『真面目じゃない』というアイデンティティは、誰にでも当てはまり、誰もが所持している、なんの意味もない、ただの属性情報にすぎない。

にもかかわらず、「真面目じゃない」自分に陶酔する大学生があとをたたない。

そして大学側は、まだこの課題の要因を、正確に認知していない。

なぜ日本の大学生は不真面目なのか?

大学側は、日本の大学生の不真面目さの要因を、ゆとり教育やSNSと絡めて語る。

それはちがうーーと主張したい。ゆとり世代を代表して、つよくつよく、主張したい。

こんなにも世にクサレ大学生が蔓延したのは、ぜんぶ、森見登美彦のせいなのだ。

前置きが長くなった。

僕はこの場を借りて、まだ森見登美彦作品を読んだことがない人たちへ、決して森見登美彦作品を読まぬよう警鐘を鳴らすとともに、大学側へ、森見登美彦作品を有害図書指定することを提案する。

森見登美彦作品とは?

森見登美彦作品の特徴は以下である。

・主人公は大学生
・主人公はひねくれていてプライドが高い
・主人公は大学およびサークルになじめない
・主人公はクリスマスやバレンタインデーなどの大衆的な恋愛イベントおよびそれらに参加する大衆を嫌悪している(でも参加したい)
・主人公には、主人公以上にひねくれた友人がいる(小津は良キャラ)
・主人公の周囲には魅力的な大人たちがいる(羽貫さんに乾杯)
・最終的に、主人公はご都合主義的に報われる(明石さんには幸せになってほしい)

上記の特徴が当てはまる作品が以下だ。

『夜は短し歩けよ乙女』
『四畳半神話大系』
『【新釈】走れメロス』
『太陽の塔』
『恋文の技術』
『四畳半王国見聞録』

これからみなさんに森見登美彦作品を読まぬようお伝えするにあたって、僕には上記作品群の概要と、森見登美彦作品を読んではならない理由を説明する責任が生じるだろう。

ここからは、上記作品を1つひとつ紹介する。

しかし、この行為は、出典を明確にし、主張に説得力を持たせる意図で行うに過ぎない。言うなれば、なんらかのものごとを批判する側の、義務であり礼儀だ。あなたに森見富彦作品をおすすめしたいとかなんかそんなのでは断じてない。

したがって、ここから紹介する作品をグーグルで検索をしたり、アマゾンで購入したりなんかしてはならない。それは僕の本意ではない。

紹介する順番は刊行順ではなく、個人的なおすすめ順である。レッツ・プレーボール。


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夜は短し歩けよ乙女

「ドラクエの最高傑作はその人が初めてプレイしたドラクエシリーズである」という中国の古典に由来することわざをご存知だろうか。

このことわざの通り、僕は「最も好きなドラクエシリーズは? と問われたら、「ドラクエ8〜空と海と大地と呪われし姫君〜」と早口かつ食い気味で即答する。

小学生の時分に初めてプレイしたときの、あの広大なフィールドを、今でも覚えている。

もちろん、ドラクエ8よりも、ドラクエ11のフィールドの方が、広くて解像度も高い。なんとまあキャラボイスまでついている。だけど、そういうこっちゃないのだ。

おそらくこの体験は、童貞卒業に近いのではないかと睨んでいる。初体験という記憶は、思い出という壁に守られる。この壁はなかなかに強固で、ちっとやそっとじゃ崩れない。初体験とは、不可侵なサンクチュアリなのだ。

『夜は短し歩けよ乙女』は、僕にとってのドラクエ8であり、童貞卒業のお相手でもある。湯浅政明監督のもとに映画化もされた、登美彦氏の代表作と言える。

個人的には映画よりも書籍の方が好みだが、それは僕の原作愛が強すぎたゆえの反動のような気もするから、この意見はあんまり参考にならないかもしれない。

〜ストーリーなど〜

「黒髪の乙女」という純粋無垢なザ・ヒロインに惚れた主人公の「私」。しかしながら臆病さとプライドが邪魔をして、「彼女の行く先をリサーチし、先回りし、偶然を装って言葉を交わす」くらいのアプローチしかできない。なんとも情けない「私」が、神秘的な京都の町で不思議な体験とともに「黒髪の乙女」とお近づきになっていく、そんなストーリーだ。

───はっきり言ってとてもいい。

主人公の「私」が、積極的に行動できない自分を正当化しようとアレコレ屁理屈をこねくり回すところとか、めっちゃ好きだ。

童貞の妄想を体現したようなヒロイン「黒髪の乙女」も魅力的だ。優しく、淑女としての嗜みを大切にしながらも、ひとりで夜の街に繰り出してしまう冒険心も持ち合わせていたり、いざとなれば大の男に鉄拳制裁を食らわす気概も持ち合わせているかと思えば、根は天真爛漫で愛くるしい。

『夜は短し歩けよ乙女』の読者は全員、黒髪の乙女を、心のうちで愛でた経験があるという。

しかし、何より僕が魅力を感じたのは、作品の舞台、京都の描写だ。登美彦氏が描く京都では、神秘的なことがまあ起こる。

夜の木屋町・先斗町では、天狗を自称するいかがわしい男が宙に浮き、3階建ての豪華な自家用バスで、金貸しの老人が密造酒の飲み勝負を仕掛ける。
下鴨神社の古本市では、古本市の神なる少年が、主人公の手に、まるで運命みたいに、黒髪の乙女が幼少期に愛読していた絵本を授ける。

こんなことが現実に起こるはずなんてないのに、僕は大学時代の6年間(不思議なことに僕の母校は6年制であった)、何かを期待して毎年京都に旅行した。

━━無論、何も起こらなかった。

『夜は短し歩けよ乙女』は、森見登美彦作品の中では「臭み」が少なめなので、きっと万人ウケもする。というか、万人ウケしてしまう。

これから森見登美彦を読むのなら(もちろん読んではいけないが)、この『夜は短し歩けよ乙女』から、森見ワールドの門戸をたたくといいだろう。




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四畳半神話体系

あなたは、「もしもあの時〜〜だったなら」という、「たられば」を想像したことがあるだろうか?

━━そうか、あるか。

それは現実逃避というやつである。やめた方がいい。

『四畳半神話体系』も、湯浅監督のもとにアニメ化された作品だ。こちらはアニメも原作も両方おすすめできる。

劇場版『夜は短し歩けよ乙女』は、原作のストーリーをかなり改変した作品だったが、アニメ『四畳半神話体系』は、原作にプラスアルファを施すアレンジが加えられている。原作のストーリー展開をを損なうことなく、プラスのストーリーを楽しめる出来栄えだ。

なにより、アニメ『四畳半神話体系』は、大酒飲みの美人歯科医、羽貫さんがめちゃくちゃエロい。

絵のタッチはエロくないはずなのに、なんかよくわからんがめっちゃエロいのである。これが色香というやつなのだろうか。

ぜひ、アニメ『四畳半神話大系』第6話、英会話サークル『ジョイングリッシュ』を見てほしい。

当作品を見れば、きっとあなたは、都合の良い記憶喪失患者のごとく、「エロっ…」以外の語彙を喪失してしまうだろう。

〜ストーリーなど〜

『夜は短し歩けよ乙女』が「恋愛」に主眼を置いた作品なら、こちらは「男の友情」を描いた作品だ…と思っている。もちろん恋愛要素もあるが。

ひねくれてプライドが高く、「小津」という妖怪のような男以外には友人もいない主人公「私」は、「たられば」の世界を夢想する。

・もしも大学入学時に別のサークルに入っていれば
・もしも小津と友人になんてならなければ
・もしも師匠(後述する)に弟子入りなんてしなければ

もしもそうであったなら、こんな味気ない大学生活に身をやつすことはなく、バラ色のキャンパスライフを謳歌していたはずだ、と。

恥ずかしながら僕は、こんな「たられば」を、のべ5万回ほど考えたことがある。

おそらく誰もがきっと、自分の不甲斐なさを環境のせいにしながら、「たられば」を夢想する。

そして、本作品では、主人公の夢想する「たられば」が現実になり、主人公「私」の様々なパラレルワールドが描かれる。

このサークルに入ったパラレルワールド、あのサークルに入ったパラレルワールド、てな具合だ。

しかし残念ながら、どのパラレルワールドでも「私」は「小津」と友人になり(※小津としか友人になれず)、華のない無益な学生生活を送る。

しかしなぜか(本当になぜか)最終的には想い人の「明石さん」といい感じになる、というのがストーリーの大枠である。

ちなみに「私」と「小津」の師匠として描かれる「樋口さん」がとても魅力的だ。個人的には、ごく控えめに表現して、めっちゃ好きである。めっちゃ好きなので、ちょっと紹介させていただく。

「樋口さん」は大学8回生で、仙人ようなふるまいと謎の人望を持ち、「私」と「小津」を「無益道」とも呼ぶべきなんの価値もないアホな道へと導く、2人の師匠である。泰然自若とか風来坊とか飄々とか、なんかそんな言葉が似合う。はたから見たら堕落しているだけなのに、なぜか堂々としている。日本語しか話せないにもかかわらず、留学生と仲がいい。あんな大人になりたいような気もするし、なってはいけないような気もする。

作品の「臭み」はけっこう強めで、個人的には後述する『太陽の塔』の次くらいの臭みを感じる。『太陽の塔』がくさやだとしたら、『四畳半神話体系』はキムチだろうか。まだ万人ウケするが、臭いことに変わりはない。順番的には『夜は短し歩けよ乙女』のほのかな「臭み」に耐えることができた場合の第二段階として『四畳半神話体系』を(けっして手にとってはいけないが)手に取るといいんじゃないかなって思う。


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【新釈】走れメロス

『【新釈】走れメロス』はすこしばかり特殊な作品だ。過去の名作群に、森見登美彦風のリメイクを施したものが収録されている。

収録されている作品群は以下。

中島敦『山月記』
芥川龍之介『藪の中』
太宰治『走れメロス』
坂口安吾『桜の森の満開の下』
森鴎外『百物語』

このなかで(不幸なことに)「臭み」の強いリメイクを施されてしまったのが『山月記』と『走れメロス』である。

メロスは激怒した、で有名なあの書き出しも、登美彦氏が「臭み」を加えると以下のようになる。なってしまう。

芽野史郎は激怒した。必ずかの邪知暴虐の長官を凹ませねばならぬと決意した。

芽野はいわゆる阿呆学生である。汚い下宿で惰眠をむさぼり、落第を重ねて暮らしてきた。しかし厄介なことに、邪悪に対しては人一倍敏感であった。

その日の午後、眠れる獅子が目を覚ましたかのごとく、芽野は一大決心をした。「たまには講義に出てみるか」と考えたのだ。

お亡くなりになった太宰治先生の心情をお察しする。


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太陽の塔

『太陽の塔』は登美彦氏の記念すべきデビュー作で、そしてもっとも「臭み」が強い。

登美彦氏の臭みは嫌いではないものの、この作品の臭みだけは受け付けない、という読者もいる(僕調べ)。

主人公は休学中の大学5回生、という設定だけみても、ダメ人間の悲哀が感じられる。そしてダメさに拍車がかかる設定として、フラれた元カノを「研究」と題してストーキングしていたりする。

『太陽の塔』は、上級者向けの作品と言える。この作品が肌になじんだとしたら、すこしばかり人間としての在り方を再考したほうがいい段階に突入しているかもしれない。ちなみに僕はめっちゃ好きだ。

『太陽の塔』に限らず、デビュー作には、作家のエッセンスが凝縮されている。まあ登美彦氏の場合は「臭み」なのだが。

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恋文の技術

あなたは、「手紙」というコミュニケーションツールに、憧憬の念を抱いているだろうか?

答えが「イエス」なら、あなたはこの『恋文の技術』を読むべきではない。

この作品を読むと、知人に気持ち悪い手紙を書くようになってしまうからだ。

ちなみに僕はこの作品の影響を受けて知人に気持ち悪い手紙を書く習慣がつい(てしまっ)た。その習慣は、残念ながら今でも抜けきっていない。

〜ストーリー〜

『恋文の技術』はすこし特殊な作品である。主人公が各知人に宛てた手紙が延々と紹介される、という内容だ。いわゆる「書簡集」というやつである。

「臭みレベル」はどうだろう、『夜は短し歩けよ乙女』以上『四畳半神話体系』未満といったところだろうか。

「臭み」こそほどほどだが、やはり主人公はひねくれていて奥手で恋心を行動に移せないダメな男。作品内には、好きな人へ宛てた「没手紙」も多数収録されている。愛が間違った方向に向かってしまったというか、Googleマップを使わずに自転車で旅行してしまったような数々のラブレターをお目にかかれる。

しかし、クライマックスではなんやかんやとハッピーエンド風の予感を感じさせる。あまり脚光を浴びる作品ではないが、個人的には良作だと思っている。

何よりも良い点は、さっと手に取って、適当なところから読み始めても面白い点だ。

この特徴は、村上春樹作品にも通ずるところがある。『恋文の技術』も村上春樹作品もどちらも、ストーリーなんてあってないようなものだからだろう。

物語の魅力ではなく、キャラクターの魅力と文体の魅力で読ませる作品と言えるだろう。

読めばきっと、誰かに手紙を書きたくなる。

しかしもちろん、大学生は読んではならない。

四畳半王国見聞録

最後に紹介する『四畳半王国見聞録』は、僕の肌には合わなかった。

阿呆大学生が主人公である点や、設定面に上記の作品との共通点が見出せる点から本稿で紹介したが、ダメだった。この作品に関しては「臭み」どうこう関係なく、面白くなかった。

この作品『四畳半王国見聞録』だけは、なんというかぶっちゃけほんとうに読まなくていい。

「臭みレベル」はどれくらいだったか、うーん、もう忘れてしまった。

おさらい

さて、ここで森見登美彦作品の特徴をおさらいしよう。

・主人公は大学生
・主人公はひねくれていてプライドが高い
・主人公は大学およびサークルになじめない
・主人公はクリスマスやバレンタインデーなどの大衆的な恋愛イベントおよびそれらに参加する大衆を嫌悪している(でも参加したい)
・主人公には、主人公以上にひねくれた友人がいる(小津は良キャラ)
・主人公の周囲には魅力的な大人たちがいる(羽貫さんに乾杯)
・最終的に、主人公はご都合主義的に報われる(明石さんには幸せになってほしい)

とどのつまり、森見登美彦作品には、ダメ人間が社会にあれこれ唾を吐きながらも結局知人には恵まれているし最終的にはハッピーエンドに落ち着いてしまう、という特徴がある。

森見登美彦作品を読んではいけない理由

森見作品を読んではいけない理由は結局「ダメな自分を肯定してしまう」ということに尽きる。

森見作品の主人公は友人が少ない。それを孤独ではなく孤高であると自称する。

主人公はひねくれていてプライドが高く、大衆に迎合しない。バレンタインデーやクリスマスに浮かれる輩に唾を吐きかける。

しかし、主人公には(数は少ないながらも)理解者が存在する。好きな人に想いを伝えあぐねてウダウダするも、周囲の協力もあって最終的には報われる。

このひねくれた弱者の救済は、言うまでもなく、あらゆる大学生の理想である。

したがって森見登美彦作品を読んでしまった場合、主に以下のような症状が見られる。

・斜に構えている俺(ただ感じが悪いだけ)
・やすやすと大衆に迎合しない俺(勇気がないだけ)
・あえて行動しない俺(失敗してプライドが傷つくことを恐れているだけ)
・行動しさえすれば結果は出る俺(希望的観測)
・いつかステキな理解者が現れる俺(絶望的観測)

あとはなんかこう、そいつの文体が気持ち悪くなるという症例も確認されている。

上記の症状は個別に発症する場合もあるが、全てが芋づる式に発症してしまう可能性が高い。

ちなみに僕は全てが芋づる式に発症した。

もしかしたら合併症みたいなものなのかもしれない。そうなってしまってはもうおしまいだ。

斜に構えて大衆に迎合せず、これといってなんの行動も起こさない人間に理解者は現れない。そして当然ながら、いかなる結果も出ない。

━━報われるのは、フィクションの世界だけである。

したがって、大学生は森見登美彦作品を読んではいけない。

そして大学は、あらゆる権力を行使して、森見登美彦作品を有害図書として指定するべきだ。

森見登美彦作品を所持している学生の単位を剥奪してもいいかもしれない。そのくらい、事態は深刻なのだ。

あるデータによると(僕調べ)、不真面目で無気力な大学生は、たいてい森見登美彦作品を愛読している。

おわりに

これまでの内容は、すべて僕の主観的な考察にすぎない。

しかし、いつの日か、しかるべき研究機関が、大学生の怠惰さと森見登美彦作品との因果関係を解析し、僕の考察の正しさが証明される日がくると信じている。森見的特異点━━シンギュラリティ━━の時は近い。

最後まで読んでいただきありがとうございます。あなたがバラ色のキャンパスライフを送れるよう、祈っています。

すべては日本の未来のために。

━━大学生よ、森見登美彦を読むな。

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