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人より前に自分を満たす

時々,いや,結構な割合で「まわりに何かしてあげたいし,役に立ちたいのだけどどうしていいかわからない」「わたしのお役目はなんですか」ということに悶々としている人に出会う。

わたしのクライエントなら,「いや,何かしてあげたいのはわかるけれど,まず,自分からですよ。自分ありきでいいですよ」と,伝える。

だけども,わたしのクライエントではない場合,関係性ができていないからそこまで深められない。伝えた後の相手がどう受け止めるかまで責任をとても負えないから,「そうかぁ」程度でお茶を濁すもどかしさもある。

人には「仲間になりたい」という脳の本能があるという。仲間になることで情報の共有ができて,より生存率が高くなるからだ。

ネットワークが作れるほど,コミュニケーションができるほど,生き延びられるのは,生後間もない赤ちゃんを見ていてもわかるだろう。

お腹がすいたら生後間もなくから泣いて,自ら能動的に動いて,お腹を満たし,生きているくらい,人はこの本能を携えて生れてくる。

だけれども,仲間になりたい本能があっても,その生命の主体である自分がしっかりとできていなければ,人を助けられない。

赤ちゃんのお母さんならば,自分が健康でなければ赤ちゃんを養えない。さらに,人は社会の中で子育てをする動物でもあるので,孤立していると生存率は低くなる。

つまり、まず自分が精神的にも身体的にも健康で人と関わることが自らの生存率を上げる。

関りたいならは,上手く対人関係をコントロールしつつ自分も大事なのだ。

先生だって家族がある

わたしがスラムと呼ばれる問題の多い学校にスクールカウンセラーとして勤めていた頃,その学校の先生たちはみんなグレーな顔色で疲弊していた。

ある先生は「自分の子どもが受験生なのに,業務が多くて残業ばかりで子どもに向き合えない。下手したら卒業式も出られない」と,いつも嘆きをぼそっと呟いていた。

確かに自分の担任する学級の子どもたちも大事だ。けれども,自分の家族だって同じように同じだ。

大変な時に担任を外してもらうこともできるのだけど,全ての希望は叶えれるとは限らず,このようなモチベーションダダさがりの先生もいる現実。

その頃,わたしは独身だったので,仕事なんだから仕方ないじゃん!
と,その先生の嘆きが理解できなかった。

でも,子を産み育て,それなりに臨床と社会経験を積んだ今なら,控えめに,そっとこんなことを伝えるかもしれない。

われわれ,人的支援を仕事にするケアギバーであっても,まず,率先して自分を優先して満たしてもよいのではないでしょうか。
そして,満たされて余力があったら,人の役に立てるように力を分けてもよいと思います。

これは,心理職が自分をよく知るために教育分析という心理面接をクライエントとして受けるように教育されているからの発想だろう。

しっかりとした自己観察と分析を深めた土台がある前提で対人援助にあたることは,基本なのだ。

この先生の場合,まず,自分の家族を優先して,受験の1年を乗り切れるように,交渉したり,パートナーに相談して(でもパートナーも教員のことが多い),どちらかが一時的に主として働くなど,労働力の交代をする。

その役割は一時的なので,双方にとってもいいし,これが今はやりのダイバーシティというものだろう。

翻って,冒頭の言葉。

自分のできることは何だろうと考えることは,人間の本能だから当たり前。そのお世話焼き具合は,まず自分ありきで,自分ができそうな範囲から始めたらどうだろう。

自分を満たせる人が人をも満たせる。

ほとんどガソリンのないガス欠車で,高速道路をいきなりぶっ飛ばす人はいない。いつ燃料切れになるかわからない時に,周りの風景も楽しめないだろう。

満タンになってからぶっ飛ばせばいい。自分のできる範囲でドライブを楽しめばいい。

そして,時々,オイルメーターを見ながら,快適な人生のドライブを楽しみたいものだと思う。





中学の先生の話
自分の子どもの卒業式に出たい
受験

論文や所見書き、心理面接にまみれているカシ丸の言葉の力で、読んだ人をほっとエンパワメントできたら嬉しく思います。