ふたりの写真がない話

「ふたりの写真が全然ないなぁ。」
やっと気づいたの。わたしは新幹線で気づいたよ。

わたしたちはふたりとも、何万円もするカメラを持っている。周りもお世辞でなく「カメラマン」と呼べる友人ばかりなので、お互いのLINEやInstagramの写真は友人同士で撮ったものだし、わたしのInstagramのアイコンも例外ではなく――先日友人を囲んで行った旅行で彼に撮ってもらった写真だ。

でも、ふたりになると、たとえ何日一緒にいても、ふたりが映る写真は増えない。カメラはいつも手の届くところにある、それくらい写真が好きだ。記録もだ。それに、東京と京都という500キロの距離を隔てて別々に過ごす「日常」よりもちょっとベターな生活がそこにあるから、撮ろうと思えばいくらでも素敵に映るはずなのに。

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土曜日の夜、鍋をした。キムチ鍋。
友人とお茶する予定があって外に出るわたし宛のLINEに、たくさんの具材が書き込まれていた。ニラニラニラ。餃子は「普通」という彼も、キムチ鍋にはニラを大量に入れたがった。豆腐は木綿か絹ごしがいいと言い張った。お鍋の豆腐はかたいほうが好きだし、調理のときも崩れにくくて失敗しづらい。食材のセンスが卓越した彼の冷蔵庫は、同年代一人暮らし男子のそれとは違って、家族で住んでないの?と疑いたくなるのだが、この日もその食材たちが大活躍だった――味が濃いチーズ、味噌、追いキムチ。そういえば味噌とキムチはわたしがきてから買ったんだっけ。ほな、チーズだけやん。

ほかほかの土鍋をぐつぐつ「炊いて」、彼の友人のプレゼントの炭酸メーカーで作った炭酸で京都のゆずリキュールを割った。彼が東京で作ったという、パインとみかんの果実酒も割った。ゆずリキュール以外はどれもこれもお店の味からはかけ離れているのに、それがうれしかった。ついていた「すべらない話」に目もくれず、耳も彼の幸せそうな「ふーふー」を捕らえていた。

日常とはいろんな意味ですこし違う特別な日は、乾杯のシーンや見るも鮮やかなお料理をこぞって写真や動画に撮ってInstagramに残す文化のなかで生きるわたしたちなのに、その様子を収めようともしない。


しあわせなんだ。彼の平和な緑に囲まれ、ほっかほかの赤いお鍋をつつき、ブランデーに少し色をとられたみかんやパインを互いに食べさせているこの日々が。日常に似た、でもあなたのおかげでちょっぴり特別なこの日々が。あんなに好きな写真が、意識から抜け落ちてしまうくらい。


思い返すと、英国留学の頃に収めた毎日の食事はまさしく「日常」だったのに、10カ月間1日も写真を撮るのを忘れたことなんてなかった。常に意識にあったから。自分で見つけたホストファミリーに囲まれ見守られた日々はあったかかったけれど、正気でいられるほどのしあわせだったのかもしれない。

あともうすこし、いやまだまだ、日常に似た、でも特別なこの日々が続くだろう。いつか日常になってほしいとも思う。日々は驚くほどはやく過ぎていってしまうから、とろけるようなこのしあわせも写真に残しておきたい。食事以外の場面でもいい。キャリーケースが開きっぱなしの、洗濯物が干しっぱなしの、積ん読だらけの、ふたりだけの正気でいられない「日常」を、「ありのまま」を、残していけたらいいね。

P.S. きっと残せる日が来るのはまだ先だ。だって、いつだって、親しい人との食事ほど写真に残らないじゃないか。でも、いつだって、心にはしっかりと刻まれているから、だいじょうぶ。

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