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檸檬色と群青色

わたしはほんとうによく涙を流す。涙を流すなんてきれいなものではないときのほうが多い。文字通り、わんわん泣いてしまう。喜怒哀楽、そして「悔」で。

昔から、ひとの感情にとても敏感な子どもだった。負の感情――怒・哀・悔・妬など――は、特に心が痛くなる。痛くて痛くて、涙が出てくることがある。人間関係も、その中にある想いも、手にとるようにわかる。

小学校2年生のとき、あるクラスメイトの靴が隠された。担任の弓子先生は終わりの会で、「ある人の靴がなくなりました。靴を隠したのは誰。」と訊ねた。重い声だった。教室をぐるりと見回すと、誰がやったのか、すぐにわかった。加害者の子とも被害者の子とも、ことさら仲良くはなかったし、知らん顔をできた状況だった。というか、そうするのが普通だろう。でも、その場にそれ以上いるのはしんどかった。犯人探しをしているその場にいることも嫌だったし、そのあと叱られるのを見ているのはもっと苦しくて、想像しただけで泣き出しそうだった。だから、その場で自分が加害者だと名乗り出たことがある。弓子先生は一旦みなを帰したあと、「なんであそこでかぶっちゃうの。あなたじゃないでしょ。」とすべてを悟っているように笑ってくれたけれど。

先日、弓子先生と16年ぶりに会って、ランチをごちそうになった。京都の嵯峨嵐山の近くにある『遊山』という和洋折衷の懐石料理店。自宅からの最寄り駅――休職している学校からはひと駅――にたどり着いたとき、過呼吸になりそうだった。休職して2ヶ月経っても、これだけは本当に良くならないのだ、不思議なものだ。ちょうどそんなとき――待ち合わせ時間の30分も前であった――、先生はわたしに電話をくれた。「かれんちゃん、いまどこにいる〜〜?」、御年69になるとは思えぬ、明るくはつらつとした檸檬色の声で尋ねてくれた。あのとき、重い群青色の声でクラスに真実を訊いた人と同一人物とは思えなかった。その明るい声で、わたしは救われた。そのあと、淡いラベンダーとも桜とも言えそうな色をしたコートを着た先生と再会した。行き帰りのタクシーの運転手さんに「缶コーヒー代ね。」と言って気を遣わせない程度の硬貨を運賃とは別に手渡した優しさにも心打たれたし、「お金崩すついでだから〜〜。」と東京にいる彼とわたしの「たくさん苦労した母」に一緒に食べた『京都のお漬物』を買ってくれたことでさらに涙腺が緩んだ。

校種は違えど、時代は違えど、同じ教員。わかりあえる話は多かった。心の病だと告げたときも、特に顔色を変えず、「そうなの〜〜。若いうちになっておいてラッキよ〜、だって4050でなってみなさいよ、そりゃあたいへんよ〜〜。」と、ただの風邪のように受け入れてくれる彼女が、わたしはとても好きだ。靴隠しがあったあの日のことも話した。「かれんちゃんはあの時みたいにたくさん生徒を守ったのよ。」と勇者のようにたたえてくれた。本当は勇者でいたかったのだが、「あのときは心が痛くて。」と正直に話した。「そうやって、生徒のしんどいところや痛みがわかるのだから、学校でなくとも、弱い人のそばにいてあげてほしいの。感じやすいのは、間違いなく長所よ。」と自信溢れた声で諭してくれた先生。関西に来て50年経っても標準語の抜けない彼女の言葉は、関西弁よりも強い。もしも将来、結婚式やそのたぐいのものを挙げるなら、彼女に司会をお願いしたいくらいに励まされる、強い意思のある声だ。

わたしは人に恵まれている。学校でうまくいかなくなったのも、生徒や同僚のせいでは、決してない。(人間関係でいろいろあったのは事実だが。)

特に、副担任をしていたクラス――個性や障壁を抱えた子が多くて、いちばん思い入れが強いクラスなのだが――の教え子のひとりは、わたしが学校に行けなくなってからも、時々メッセージをくれる。彼女は東京の大学に進む。とても聡明だったが、朝登校するのがしんどい子だった。(文化祭でクラスを引っ張ってくれていた彼女が朝シャキっと7時半に登校したとき、隠れて泣いてしまったぐらいだ。)なぜか午後ばかりに配置されたわたしの授業。顔に「眠いよ〜〜〜」と書いてある生徒たちのなかに彼女がいるとうれしいので、そのクラスの授業はわたしのお気に入りだった。

先生たちも、いい人がとても多かった。特に同期の結束は、一般企業の同い年たちよりも強かったかもしれない。教員は教壇に立った瞬間から「一人前」として扱われるので、毎日試行錯誤で、花金とか関係なく、週に2〜3回ラーメンを食べながら、または飲みながら、どうしよう〜〜と頭を抱え、互いに悩んだこともしばしば。良い同期だった。こちらも、よくLINEをくれる。でも、さっぱりした人が多くて、それがなかなか性に合わなかったのもあったり、なかったりな、まだ詳しくは話せないけど、そんな職場だった。

もう一度言うが、わたしは人に恵まれている。200人の思春期後期の子どもたちが目の前にいた。みんな、とってもとってもいい子だった。だからこそ、モラトリアムとも少し違う、がむしゃらなまっすぐな瞳の内側にあるものすべてを、苦しいものはすべて、いっしょに抱えたかった。家庭でも、勉強でも、部活でも、18にもなればいろいろある。打ち明けてくれる子も、うまく言えないけど苦しがっている子もいた。保護者もだ。その子達を40人、まとめて見るのは、わたしにはできなかった。どうしても雑になってしまう指導や、どこに合わせるかを悩む授業をこれ以上やりたくない、と心が悲鳴を上げたのだと思う。(そもそも授業は皆がわかるように行うものであって、どこかに合わしていてはいけないと思っている。ひとりひとりに向けたきめ細やかな補習や指導をしたかった。)

2月から、少しずつ生徒の前に立ち、教育の世界に戻ることになった。「人の気持ちがわかって、わかるせいで、受け止めきれなくなった。」、この事実を心に置いて、弓子先生のような、全てをわかった上で明るく強く朗らかに笑える先生を目指したい。


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