見出し画像

いぬになりたかった

わたしの家では「アネラ」という犬を飼っている。彼女は、ハワイ語で「天使」という意のその名の通り、天使のように、孫のように扱われている。アネラは、2年前に2つ下のわたしの妹によって連れ帰られた。両親は、就職して勝手をする彼女の行動に最初はもうカンカンで、狭い土地に無理やり建てられた縦に長く階段の多い家いっぱいに響き渡る声で「返してこい。」、「出ていけ。」と話していた――実際は怒鳴り合っていたに近い――のを憶えている。6帖の小さな部屋の、その身体にはがぼっと大きいケージに閉じ込められっぱなしの彼女は怯えかえっていたから、鬼が居ぬ間に洗濯、ならぬ、「父が居ぬ間に放牧」してやっていた。いつまで経っても頑として返しに行かない妹と、それ以上にかわいい高価なアネラに見かねて、父は飼うことを許さざるを得なかった…というか、可愛さに負けた。

そうして晴れてわたしたちの家族になったアネラは、すぐにうちのアイドルになった。うちに来てすぐのときは外出もできなかった彼女だが、予防接種を打ってもらい、外に出られるようになってからは、散歩を欠かさない。よく「犬を散歩に連れて行く」や「犬の散歩をする」というが、うちはもっぱら、「犬と散歩に行く」である。アネラは気が強く、犬なのにじゃじゃ馬なので、わたしたち人間よりも先をゆく。自然界にあるいろんなにおいを嗅ぎ、なんでもぺろりする。人間の食べているものも食べるので、特に甘いものをローテーブル――かっこよく言ってみたが、こたつである――で食べるときは要注意なのだ。「タイニープードル(tiny=小さいの意)」という、皆さんご存知のトイプードルよりもひとつサイズの小さな犬種(体重はマックスでも3.5キロくらいらしい)なのに、うちの犬は昨晩4.5キロもあった。骨によいものがぎっしり入ったものを食べているので背丈も大きいのだが、それでも大きい。この原因は、いつも父にある…ので、アネラをもじった「マゴラ(孫ラ)」と呼ぶこともある。

アネラの1日は、人間から見てもとてもしあわせだ。犬という生き物は早起きだと信じていたわたしだったが、彼女と出会ってから、「例外」もいるのだと知った。母か父と一緒に寝ている彼女は、その寝床に居座り続け、ぎりぎりになったら、こたつに移動する。皆が支度をしている間はそのまま寝続け、さて出発、という段になってやっと起きてくる。アネラは車でも徒歩でも、おでかけの類が大好き(家族にとても似た)だ。うちは、娘ながらに言うのはとても恥ずかしいが、母が父を溺愛しているので、母は毎日父を車で片道30分くらいかかる会社まで送るのが当たり前になっている。その車に、アネラは、必ず、必ずついていく。アネラは父が大好きなので、父が運転していようと助手席にいようと関係なく、膝にちんと座り――実際はちんとなんて座っていられたことはなく、動き回るのだが――、とっても楽しそうに隣に座る母を見つめる。隣で母はメイクをしていることがほとんどなのだが、メイクを邪魔することは決してしないのだから、やはりアネラも「女子」なのだろう。母のメイクが終わると、母の膝に移り、窓枠に両手をかける。そうしたら、「窓を開けて。」の合図。母は赤ちゃんにでも話しかけるように「お外みたいの。」と尋ねてから、窓を全開にする。真夏でも、真冬でも、全開に。しばらく外を見たら、満足した顔をして、父の膝に戻る…という始末だ。のびのびしていて、見ているだけで朝から笑顔になれてしまう。

父を送ったら、寂しい顔をする。そのときに出てくる「くーん。」という泣き声が、「寂しいよ。」なのか、「行かないで。」なのか、「早く帰ってきて。」なのかはわからないが、きっとそのどれかに近いのではないかと思っている。わたしも時々そう鳴きたくなるから。母の運転でうちに帰ると、アネラはケージに、母は仕事に出かける。皆が仕事に出ている間は、アネラはまた眠る。(仕事以外でアネラを置いて出ていくことはほぼない。)

わたしが起きてくると、いっしょに散歩に行くことが多い。よっぽど眠いときは、ちいさな怪獣みたいな声を出して、噛みかかってくることもあるから、すこし怖い。散歩に行くと、昼間の散歩はたのしいのか、るんるんと音が聞こえそうな軽快な足取りで、好きなところを1時間ほどぐるりとすることが多い。わたしが仕事に行っていたときは、歩く仕事をしている母が帰ってきて、また歩く仕事にでかけていた。その後はご飯を食べ、ラッコの、中が空洞になったぬいぐるみをわたしたちの手に置くことでおやつをねだり、おなかがふくれたら、また眠る。母は掃除機をかけるのが大好きなので、掃除機をかけたりもするが、自分のケージの中を掃除機が通るととても怒るだけで、あとは静かなもんだ。

夕方になって、ブーメランのように毎日直帰の父が帰ってくる。母の携帯が鳴ったら、お迎えの合図。行きと違って、最寄り駅までは電車に乗ってくれる父を、また母とアネラが迎えに行く。帰ってきたら、すぐにまた、次は父と一緒に散歩に出かけて、運動して身体も腸もすっきりしたあとは、ごはんをお昼よりも多く食べる。それに加えて、「のりまきちゃん」というごはんを焼き海苔で巻いたものが最近のお気に入りで、自分のごはんとは別にねだって、甘い父にもらうのだ。他にも、鹿肉、イノシシ肉、ダチョウ、煮干し、犬用チーズ、キャベツなんかを食べるときもある。食べ終わったら――自分で食べ終わることを決めるわけでは決してなく、人間が「もうあかん。」というのだが――、歯磨き、耳掃除と続く。歯磨きに遣われる犬用の歯磨き粉はマヌカハニーでできており、わたしのヘアオイルよりも少ないのに、2000円以上もする代物だ。360度磨ける歯ブラシを使って、磨かれる。それが終わったら、もうおわかりだろう。すやすやタイムだ。

アネラはもうすぐ2歳、人間で言うとちょうどわたしと同い年くらいかなあという年なのに、一日の半分は確実に寝ている。そしてよく食べて、太っているとか、痩せているとか、そういうことには一切目もくれない。甘えたくなったらひとに甘え、遊びたくなったら「アネラのおもちゃ箱」から好きなのを選んで、持っていく。そんな自由気ままな生活が、最近まで心底羨ましかった。(羨ましいと思うのは、多分わたしだけではないだろうと信じている。)

でも、最近その気持ちは薄れつつある。彼と出会い、帰りを待って、自由にメッセージや身の回りの写真を送り合い、電話で声を聞いて、笑う。こんな夜中でも、電話で繋がり、寝息を聞きながらnoteを書くことだってできるし、好きなときに東京に行き、彼に会い、キスなんかもしたりできちゃう。わたしがアネラとするキスとは、違う――もちろん、アネラのことも愛してはいるのだが。彼と一緒にいないときも、彼のお気に入りの本を借り、読んで、彼はどんなことを感じたのだろうと想像する。

"Language shapes the way we think."と言った人がいる。まさにそのとおりで、アネラを見ていると、彼女は考えてはいない、「感じている」のだとわかる。わたしたちも直感はある。でも、わたしたちは言語があることで、感じたものをより深めたり、ひとに伝えることだってできる。

文学部にいた大学の4年間、教職や言語習得を学び、実際にことばを教えるひととして、たくさん「ことば」について考えてきたつもりだった。実際考えてきた自信はあるし、上記の言葉もそのときに学んだものだ。でも、今こうやって文章を書き、大学では読まなかったものを読み、なによりも彼やまわりのみなと話すこと、これこそがわたしに深みを与えてくれているような気がする。そのきっかけをつくってくれたのは、紛れもなく彼だ。

商学部に在籍していた彼の大きな本棚にはいろんなジャンルの本が並ぶ。お金のことを考えるのが苦手なわたしは、彼に出会わなければ多分一生触れなかったであろう、マーケティングや経済学の本、国際関係や国際協力の本。一時期教育のしごとをしていたこともある多才な彼は、教育の本も読む。「人生はノリ。」なんて言っているけれど、社会がどう成り立っているか、これからどう生きればいいか、を人一倍考え、ホリエモンこと堀江貴文さんや、落合陽一さんの本が愛読書なのは、もう知っている。

ひとの人生を考える仕事をしている彼は、「物の言い方」の研究を毎日している、とってもすてきなひとだ。先日の飲み会では、「ひとへのものの頼み方」を褒められたらしい。

わたしはいぬになりたかった。うちで心から愛されている癒しの天使、「アネラ」に。でも、いまは違う。その気持ちが消えたわけではないが、わたしはわたしのままがいい。人間として社会で生きていれば、空気を読むことに悩むこと、ふいに言われた一言に傷つくことも少なくない。一緒に住む家族とでも、いろんなことがあるのだから。でも、でも、でも。生きていれば、それだけでしあわせだと思える、笑顔が思わずあふれるあったかい、平和な出会いがある。ひとにはことばがあるから、たくさんの自分以外のひとやことを考えることもできる。そして人間として生きていれば、その気持ちや考えを、「ことば」に乗せて伝えることができる。ことばはわたしにとって欠かせない。これからも、ことばをつかって、大切な彼とたくさんの言葉を交わし、たくさんの約束を連ね、叶えていきたい。だから、わたしはひとのままで、今の毎日を精一杯たいせつにしていこう、と心から思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?