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I-7)1987年、やっと回り始めた私の仕事

ノートを書き始めて自己紹介をのぞいて最初の記事は、”リアリティショック”経験のこと。働き出した時、転職したての際には、え、こんなはずじゃ、は誰にでもあること。私だけではありません。でもやっぱり、そういう時ってこたえますよね。その時の記事はこちら。

そこからいろいろ経て、今日の記事は、社内で移れた先の部署でのお話です。

 異動先は50人を超えるエンジニア部屋。一応外国人の秘書職ではあるものの、基本的には皆さんのお世話。社内異動でやってきた社会人一年生の私のことを、前の部署でうまくやれなかったんじゃないか、とか色々思われるだろうなと危惧しました。でも、幸い、皆さんにあたたかく受け入れて頂きました。なのでとにかくなんでもやりました。トルコ人のボスからも、皆さんのサポートもあわせてよろしく頼むね、と言われていましたし。何しろ仕事があるんですもの。自分が求められているんですから。それは張り切って働きました。

 朝一番のルーチンは、お弁当の注文です。その頃会社は広尾にありましたが、何しろ飲食店自体がない。パXXXXフーズさんの献立が貼ってあるところに、その日お弁当を食べる人が名前だか丸をつけてあって、何は忘れてもその数をお弁当屋さんに10時までだかに電話をかけるのが日課でした。確か380円くらいだったような。私がうっかり病欠などした日には、誰も気づかず、頼んだ皆さんがお弁当を食べられないということも幾度かあり、迷惑をかけました。

 開発の技術者たちから、A1くらいの大きなサイズの図面コピーもよく頼まれました。青焼きお願い、とか言われて。アンモニアか何かの匂いでものすごく臭いんですよね。でも嬉々としてやりましたよ。仕事を頼まれるのですから、嬉しいもんです。

 海外の拠点からしょっちゅう出張者があったために、ホテルの予約を頻繁にしました。帝国ホテル、ニューオータニ、オークラ、などへ普通に予約をしました。そういう時代でした。なかでもまだ開業したてだった六本木の全日空ホテル。そこの営業の方から積極的攻勢もあってよく使いました。(今はANAインターコンチネンタルホテル東京になってますね。)なんでも、私が一番年間で予約した数が多いとか、で無料で泊まれる宿泊券も幾度か頂きました。ご自分でもご利用になってみて下さいとのお気遣いから。なので、先輩秘書の方と一緒に利用させて頂きました。いい時代でした。

 エンジニアたちは国内外を飛び回るため、新幹線や飛行機の予約依頼の紙を私の机の上に置いていきます。なので、毎日のように旅行代理店にも電話をかけていましたので、担当者の方とは随分親しくなりました。エンジニアの中には、フロリダやシンガポールの拠点に頻繁に出張する人もいました。あれから約30年以上経ち、当時のエンジニアの皆さんどうされているのかしら、と思うこともあります。

 そんな中、お一人とは、今不思議な形でおつきあいができております。キャリアコンサルタントで社会保険労務士の堀川眞也さん。後に退職され、他の複数の企業で勤務される中で、資格取得にチャレンジされて数年前に退職。ご自分の事務所を開かれまして、私とは今は、キャリアコンサルタントの勉強会などでしばしばお目にかかったりしています。こんな方です。

 互いの20代前半を同じ部門で過ごし、同じころ子育てして同じように無認可保育園に子供を預けるなど苦労話をしたことも。それが後年、働く人や企業に対してキャリアの面から支援する仕事でクロスするとは。人生ってほんとにおもしろい。彼も私も、働く人を支援したい、という熱い想いが同じなのです。

 そんなこんなで、大勢の人たちの忙しい日々の業務にうまく絡み合い始めたりして、やっと私の職業生活もなんとか回り始めた時期でした。やっと同期の人たちとも、「今週忙しかったのよ」とかいう会話に加われるようになったんです。それまでは、そんな話を聴くと、話を合わせるのがつらかったですから。職場でどこかに属してるという帰属感は大事です。充実感、働く喜びを味わうことと共に。


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