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漢文は不要なのか?

1. はじめに

 だいぶ前の話にはなるんですが、「それってあなたの感想ですよね?」でお馴染みのひろゆきさんがこのようなことを言っていました。

 それ以前にも、RADWIMPSの野田洋次郎さんも漢文って要らなくね?みたいなことを言っています。

 このように、漢文はなぜか定期的に不要論が提唱されてしまいます。今回は漢文不要論に対する反駁……とまでは言わないものの、漢文って意外と有用やねんでっていうことをお伝えできたらいいなあと思います。


2. お前らの言い分はわかる

 さて、漢文の有用性を伝えるとか言った矢先にこんなことを言うのも変なんですけど、確かに漢文って使う機会ないですよね。大学入試なんかでも、古典の問題は出ても漢文の問題が出るというところは少ない気がします。僕が現在通っている大学の入学試験にも漢文は出題されませんでしたし。文学部やのに。
 「入試に出るならまだしも、入試に出んものをわざわざ勉強する意味なんかなくない?」って言いたそうな顔をしていますね。漢文不要論者が口を揃えていうことですし僕もそう思っていたので、漢文不要論者の言い分は理解できます。
 では、なぜ現在においても漢文は学習されているのかということについて考察したいと思います。


3.  漢文を学習する理由

 高等学校国語科の学習指導要領にそれっぽいことが書いてありました。

 我が国の文化と外国の文化との関係を取り上げているのは,我が国の言語文化の特質を理解するに当たって,中国など外国の文化との関係が重要だからである。我が国は中国の文化の受容を繰り返しつつ独自の文化を築き上げてきた。その経緯を踏まえ,古文と漢文の両方を学ぶことを通して,両文化の関係に気付くことが大切である。古来,我が国は,文字,書物を媒介にして,多くのものを中国から学んだ。その結果,漢語や漢文訓読の文体が,現代においても国語による文章表現の骨格の一つとなっている。漢文を古典として学ぶことの理由はこの点にもある。
【文部科学省『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 国語編』p.118】
 国語の書き言葉は,古事記など日本式の漢文で書くところから始まった。一方,日本人の情感や自然への感覚を詠った万葉集は,漢字の音を借りた万葉仮名で書かれることもあった。やがて,漢文を訓読するときに行間に書き加えられた漢字を省略した片仮名,万葉仮名を崩した平仮名が成立したことで,国語を自在に書き表すことができるようになっ た。
【中略】
 このように,現代の文体は,和文と漢文訓読文の並立から和漢混交文へ,そして言文一致体へという歴史的流れの中にあることを理解することが重要である。
【文部科学省『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 国語編』p.121】

 以上の内容から、①日本文化の発展には中国の文字・書物が影響しているため
、②現在の日本語にも漢文の影響が見られるため、③当時の中国語(漢文)に日本語のルーツがあるためという3つの理由により漢文を学ぶ必要があるといえます。
 本稿では学習指導要領の内容をかなり省略していますので、詳しく漢文を学ぶ理由を知りたいという方は、以下に高等学校国語科の学習指導要領を添付しておきますのでご一読いただければと思います。文部科学省の超大作を見逃すなかれ!


4. 漢文の実用性①

 多くの漢文不要論者は「漢文は役に立たないから要らない」と言いますが、僕はそう思わないんですよね。ここでは僕の経験などを交えて漢文の有用性について述べたいと思います。

4-1. 国語科の授業で役に立つ
 「漢文を使う職業」堂々の第1位は国語科の先生です。漢文を教えるにあたって漢文の知識は必須ですし、教員採用試験の専門教養にも出題されます。漢文の知識なくして国語科教員になることはできないのです。
 さらに、「漢文を書き下す職業」堂々の第1位は生徒です。漢文を書き下す際に訓読の知識は必須ですし、定期テストや入試などでも漢文の知識は役に立ちます。もし、授業中に当てられたり、試験に漢文が出題されたとしても、漢文訓読スキルがあれば難なく危機を乗り越えることができるのです。
 これらのことから、教員だけでなく、生徒にとっても漢文は大変有用なものであるということが可能です。

4-2. 単位・学位が取れる
 「漢文は高校で終わり」と思っていませんか?そんなことはありません。漢文を読む講義は大学にも存在します。漢文が読めなければ単位が修得できないのはもちろん、それが必修科目であれば卒業や資格の取得ができなくなってしまいます。
 さらに、研究や卒業論文で漢文を用いる場合もあります。サンスクリットやチベット語、日本語のテクストが散逸している場合、漢訳本を当たるほかありません。しかし、漢文訓読スキルがなければ、漢訳本を読むことができないため卒業論文も執筆できず、最終的に退学・除籍になってしまった、という事態になりかねません。
 しかし、漢文訓読スキルさえあれば、テクストを読むことができ、それによって研究や卒業論文の執筆が可能となり、さらには卒業することも可能となるのです。
 これらのことから、漢文が読めるだけで落単・留年・退学・除籍のリスクを大幅に下げることができるといえます。

4-3. 教員採用試験で役に立つ
 先述の通り、「漢文を使う職業」第1位は国語科教員です。しかし、教員というのは勝手になれるものではありません。教員採用試験に合格しなければ教諭として教壇に立つことはできないのです。
 教員採用試験は、教育学などについて問う「教職教養」、一般的な知識を問う「一般教養」、教科の知識を問う「専門教養」の3種類の筆記試験があります。まずはこれを突破しなければ次の面接試験・場面指導などに進むことはできません。
 国語科の専門教養には漢文ももちろん出題されます。自治体によっては白文を出すところもあるので、漢文の知識を思う存分発揮することができます。
 このことから、漢文が読めるということは、教員採用試験を突破するために必要不可欠であるということができます。

 ただ、以上の例は、文系コースから文学部に進学し国語科の教員になる場合に限った、あまりにも極端な例であると言わざるをえません。


5. 漢文の実用性②

 では、文系コースから文学部に進学し国語科の教員になる人以外の人にとって漢文は役に立たないものなのでしょうか?この問いに対する答えになりうる記事を見つけました。

 以上の記事に書かれている漢文の有用性は以下の通りです。

①SNSの投稿やショートメッセージがスマートになる
②情報伝達コストを下げられる
③法的リスクへの対応力を強化できる
④海外の偉い人に接する際の売り込みツールとして威力を発揮する

 流石に③と④は卑近な例とはいえませんし、僕にはそういった経験は一切ありませんので①と②について述べたいと思います。

5-1. SNSの投稿やショートメッセージがスマートになる

 安田峰俊氏はこれについて、次のように述べています。

 たとえば、「成功」は「功を成す」、「普通」は「普(あまね)く通ずる」、「喫茶店」は「茶を喫する店」……と、漢語の語彙の多くはいわゆる漢文訓読の書き下し文にできる。これらの言葉の正体は、実はすごくミニマムなサイズの漢文なのだ。

 「休みの日は本を読みます」とか「メロスは激しく怒った」と言っても相手には問題なく通じますが、「休日は読書をします」とか「メロスは激怒した」と言った方が、文章も洗練されスマートかと思います。


5-2. 情報伝達コストを下げられる

 安田峰俊氏はこれについて、次のように述べています。

 漢字は表意文字(表語文字)なので、ひらがなやカタカナよりも視認性が高く、単語が指す概念が感覚的に伝わりやすい。場合によっては、その単語を知らない相手にも、ある程度まで概念を伝え得ることすらある(たとえば「差遣」や「懇請」という言葉をはじめて見た人でも、なんとなく「人を使いさせる」「よくお願いする」といった大まかな意味の想像はつくはずだ)。

 以上のことから、相手が知らない語句であったとしても、漢字の意味が理解できれば、大まかな意味を掴ませることができるということです。「象徴(抽象的なものを具体化したもの)」とか「樗材(使えない人材など)」とか「尤物(優れたもの)」とか「搔頭(頭を掻くこと)」みたいにね(例が悪すぎる)。

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Fig. 01:あまりにも例が悪すぎる漢語の書き下し


 「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国でつくられたすぐれたものと見える。(38文字)」と言うより、「英吉利製の尤物と見える。(12文字)」とか「英国製の尤物と見える。(11文字)」と言う方が、文章を短くしつつも同じ量の情報を伝えることができます。

 以上のことから、漢文は、①文章を洗練させる、②文字数を減らしつつも情報量を維持・増加させられるという面で、漢文は役に立つということができます。
 日本人であれば日本語の文章は誰でも書くわけですので、日本語話者であれば漢文は誰でも役に立つということができるかと思います。


6. おわりに -学校は職業訓練所ではない-

 「1. はじめに」で挙げたツイートで、ひろゆきさんと野田洋次郎さんが「『お金の貯め方』『生活保護、失業保険等の社会保障の取り方』『宗教』『PCスキル』の教育と入れ替えたほうが良い」とか「中国語で読める漢文を教えてほしかった」とかと言っていましたが、学校は「生きる力」を涵養する場であって、職業訓練所ではありません。社会保障の取り方や中国語を知っておくに越したことはありませんが、学校の第一義的な目的はスキルの習得ではなく「生きる力」の涵養です。スキルの習得を第一義的な目的する(であろう)ECCやAVIVAと学校とでは目的・目標が異なるわけです。

 また、実用的な知識に偏った授業はある弊害を起こしてしまいます。例えば、このツイートの何が面白い(すごい、という方が適切か?)か、理解できますか?

 「虎にならないといいですね」というのは、自身の臆病な自尊心、尊大な羞恥心、またそれゆえに切磋琢磨をしなかった怠惰のせいで虎になった『山月記』の李徴みたいにならないといいですね、という意味の発言です(多分)。高校を卒業している人であれば、ほとんどの人がこの発言に「おお〜!」となったかと思います。……なりましたよね? このように、「虎にならないといいですね」という発言の秀逸さは、中島敦の『山月記』を知っていて初めて理解できるものです。
 学校教育は、「生きる力」の涵養だけでなく、「教養のセーフティネット」の役割も少なからず果たしているということができます。国語で扱う文学だけが学校で学べる教養ではありませんし、実用的な文章を国語の授業で扱うべからずとも思いませんが、実用的な知識に偏った国語の授業の展開は、文学に触れる機会の少ない生徒から文学に触れる機会を奪うことになります。それによって、普段から文学に触れる生徒とそうでない生徒とで教養の量に差を生じさせるという弊害を起こしかねないのです。
 日本人が「エコノミックアニマル」からいつまでも脱却できないのは、宗教への関心が希薄であるということだけでなく、「実社会」で有用な知識・スキルを重視し、学問や教養を軽視しているからではないでしょうか?

一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。
【作者不明『福澤心訓』】

 そもそも、「漢文は不要だ!」っていうのは「素因数分解なんて要らん!」って言うのと一緒でナンセンスです。素因数分解もみなさんが日常生活で直接使うことはないかもしれません(少なくとも僕は使っていません)が、インターネットのセキュリティを守っている非常に有用なものです。漢文だって文章を書いたり喋ったりする上で十分役に立っています。みなさんがそれに気づいていないだけで……。
 それでは今回はこの辺で。


7. 反省(おまけ)

 僕の友達エロゲの感想やら好きなゲームについて書いているというのに、僕は一体何をだらだら書いてるんでしょうね?次回はぶっ飛んだ内容のnoteを書きたいものです……。

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