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解釈違い

1. はじめに

 この度1回目のワクチンを接種したたいちょーです。1回目とはいえ結構熱上がりますね。僕の平熱35度台なんですが、今37度あるんですよ。2回目やばそう。
 さて、今回は突然なのですが、オタクがよく使う「解釈」について述べたいと思います。オタクに喧嘩を売るかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。


2. 一般的な「解釈」

 まず、ここで「解釈」の意味を確認しておきたいと思います。『精選版 日本国語大辞典』には次のように記載されています。

かい‐しゃく【解釈】〘名〙
① 語句や物事の意味、内容などを説明すること。解き明かすこと。また、その解説。
※古事談(1212‐15頃)三「次令問其義趣之処。一々解釈之無滞停」 〔後漢書‐陳元伝〕
② 物事、特に表現されたものを、自分の経験や判断力などによって理解すること。
※水流雲在楼集(1854)下・題瑞香花「青皇解釈我詩愁、故使春風扇弊幬」
※雁(1911‐13)〈森鴎外〉六「吝(けち)な末造の処置を、お玉親子は大そう善意に解釈(カイシャク)して」
③ 法令の意味を明確にして、その内容が動かないように定めること。
※有閑法学(1934)〈穂積重遠〉五三「此事件は民法第一九五条の解釈についてのみならず、本権の訴と占有の訴とを如何に使ひ分くべきかの訴訟戦術につき」
【精選版 日本国語大辞典(コトバンク内)】

 以上のことから、「解釈」の意味は、「表現物の内容を自身の経験や判断力をもとに理解・解説すること」という意味の語句であるということがわかります。 
 ちなみに、「解釈」は元々は仏教用語です。『WEB版新纂浄土宗大辞典』には次のように説明されています。

げしゃく/解釈
経典や論書の意味を理解して解説すること。また文章を注釈し、説明すること。ⓈkalpanāやⓈvyākhyānaの訳語としても用いられる。インドでは韻文の形式で表された経論も多く、それのみでは意味が不明瞭な場合もあるので、それに対して長行の形で注釈して解釈を施し理解をうながすことがある。また中国や日本では、経典名や大意を説明する玄義(玄談)、文章を注釈する入文解釈(随文解釈)という形式を用いて解釈を行い、経論の意趣を解き明かそうと試みている。
【WEB版新纂浄土宗大辞典】

 経典や論書は難解な内容のものが多く、注釈が複数加えられているものも少なくありません。龍樹りゅうじゅNāgārjunaナーガールジュナ)の『中論頌』などがその一例です(月称げっしょうCandrakīrtiチャンドラキールティ)とか清弁しょうべんBhāvivekaバーヴィヴェーカ)とか仏護ぶつごBuddhapālitaブッダパーリタ)とかが『中論頌』の注釈書を著しています)。
 このように、論書の内容を理解し、解説(注釈)を加える「解釈げしゃく」がもとになって、世間一般のいう「解釈かいしゃく」という語句が誕生するわけです。

 

3. オタクの「解釈」

 さて、次はオタクが用いる「解釈」の意味を確認と思います。『ニコニコ大百科』には、「解釈違い」の意味について次のように述べています。

 原作、二次創作問わず、作品には大まかに設定やストーリーが決められているものであるが、この創作の受け取り手が作品を見ていくうえで「なんか違うなぁ」と思うことを主に解釈違いと呼ぶ。
【ニコニコ大百科】

 まあ要は「表現物を見た受け手が表現物に対して違和感を抱くこと」が「解釈違い」ってことですね。したがって、オタクが用いる「解釈」は「表現物を見た受け手の理解」といえるかと思います。


4. 両者の「解釈」の相違

 さて、前項・前々項で述べたとおり、一般的に用いられる「解釈」というのは「表現物の内容を自身の経験や判断力をもとに理解・解説すること」、オタクがよく使う「解釈」は「表現物を見た受け手の理解」といえるかと思います。
 ここで注目したいのが両者の「表現物」の立ち位置です。世間一般の「解釈」は表現物が中心に位置にいます。日本国憲法とかがその一例です。憲法学者によって条文の解釈のしかたは異なりますが、必ず条文の内容が根本にあって、そこから憲法学者独自の理解が展開します。
 一方で、オタクの「解釈」はオタク自身の理解が中心に位置しているといえます。「キャラクターAとBのカップリング(付き合うこと)はあり得ない」であるとか、「キャラクターAが死ぬのは絶対に違う」という、オタク本人の理解が中心になった上で理解が展開します。
 両者の相違を図示するとこんな感じですかね。

名称未設定

 これを見るとおわかりかと思いますが、オタクの「解釈」は実際の「解釈」ではありません。「解釈」というのはあくまでも表現物の内容が根底にあって、そこから受け手の理解が展開するものです。もし、表現物と受け手の理解に乖離がある場合は、受け手の理解を修正する必要が生じます。テクストに書いてあるとおりに内容を読み取る必要があるからです。もっと言うと、テクストに書いていないことを勝手に読み取ったり、テクストの外部からまったく別の情報を持ち込んではいけないんです。
 ですので、「公式が解釈違い」というような事柄が発生することは、公式がよほどの無能でない限りあり得ないはずです。


5. おわりに -解釈≠妄想-

 「解釈」というのは一個人の「妄想」ではないですし、一個人の理解を表現物に押し付けたりしてもいけません。「書いてあるとおりに読む」、これはテクスト読解の鉄則です。
 そういえばTwitterでこんなツイートが出回っていましたね。

 ただ、「書いてあるとおりに読むこと」がすべてにおいて正しいというわけではありません。日本語はハイコンテクストな言語ですので、「書いていないことを読む」というのが求められるからです。だからこそ「書いてあるとおりに読むこと」と「自身の解釈を加えて(筆者の本意を慮って)読むこと」の両者を鍛え、使い分ける必要があります。日本語って難しいですね〜!


6. おまけ

 1回生のときに受講したとある言語学の講義で、「日本語学を齧っている人は性格がひん曲がる」というようなことを先生がおっしゃっていました。当初は「そんなバカな」と思いましたが、今思えばそのとおりかもしれません。俺の性格はひん曲がってへんぞ!!!!!!!!

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