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2023


備忘録として
ほぼほぼ自分用メモとして書き殴ります。

めちゃくちゃ私に興味ある人だけ読んでくださると幸いです😂

さて2023は
ここ数年の健康を、随分取り戻した1年だったように思う。

良かったこと
〇転院

3年前に仕事や諸々の心のキャパを超えて、メンタルクリニックへ。その病院は診察が3分足らず。同じ薬を淡々と出されて飲み続けていたけど、一向に良くなっていく兆しがなく…
昨年の終わりごろ、思い切って転院。

じっくり向かい合ってくれる先生で、堰を切ったようにあれこれ話す自分を受け入れ、解決策を一緒に探してくれた。

前の病院通ってる間に、良くなるどころか、適応障害と言われていたものは「うつ」に進化していて、今の自分に合う薬を、諦めずに探してくれた。

最初(1〜4月ぐらい)は飲み始めの副作用に随分苦しんだけど、段々と効いてきて、日常を送れる日が増えた。

光が見えた気がして、嬉しかった。

〇カウンセリング

気持ちが上向いてきた頃、
薬での治療は限界があり、自己肯定感の低さは治せない
とのことで、病院内でのカウンセリングを受けられることになった。

2週間に1回、50分。
鬱になった原因と思われる、過去のあれこれを話す。

自分の過去と向き合う作業は、かなりの疲労を伴った。
でもそんな話を受け入れ、思考の整理を一緒に手伝ってくださった。
家族や友人には、迷惑になってしまうし、なかなか思っている奥底の部分まで話せることってないので、このカウンセリングという仕組みは有難かった。

少し自分の体調や状態を、客観的に見られるようになってきた気がする。

〇希死念慮が薄れた

漠然と、でも強く「自分が居なくなれば色んなことがうまく回り、家族も楽になるだろう」
と思っていた。

生きているだけでお金もかかるし
人と関わる。

布団に突っ伏して、ろくに金を稼いでいない自分は、生きてるだけで迷惑だと思った。

もちろん好きな人達はいるし
表に立てば、愛情や優しさを分け与えてくれる人も沢山いた。

それでも1人になると、自分なんかもう…という思いが、四六時中頭から離れなかった。

感覚が変わったのは、8月。

祖父の死だった。

長崎の最果てで暮らしていた祖父と最後のお別れをしたくて、夜中の高速道路を走った。

真っ暗で怖さもあったが、もし事故でも起こしたら祖父が悲しむと思って、とにかくひたすら集中して車を走らせた。

この歳になってアレだが
死とちゃんと向き合うのは初めてだった。

柩の中にいる祖父は
眠っているように綺麗な顔で
もう話せないのか?と実感がない程だった。

その後、火葬場へ。
大きなボタンを祖母が押すと、棺ごと焼却炉に入っていった。

次に出てきた時には、綺麗に骨となっていた。

ここで初めて、「あぁ、もう祖父はいないんだ」と実感した。

お箸で身体の骨を壺に入れていく。
皆泣いていた。

その後は寺へ行き、お墓へお骨を納め、お坊さんの話を聞き、親族やお客様へのおもてなしが夕飯まで…

目まぐるしかった。
両親はこの日を含めて数日寝ていないのに
やるべき事を滞りなくこなしていた。
自分も出来ることをせねば、と母に着いてあれこれ動いた。

葬儀というものは、亡くなった人を弔う儀式であることはもちろん、
その人が亡くなった、と残った者が明確に納得していくための儀式なんだろうな、と思った。

このあと、不思議と
あれほど頭にこびりついて離れなかった「消えてしまいたい」という念が、ぱたりと消えた。

居なくなった後の出来事を
身をもって知ったから。

両親や家族に、燃えたあとの自分の骨を拾わせるなんて、こんなに悲しませることはない。

両親と夫をちゃんと見送ることが、自分の人生の義務と思った。それまでは無責任には消えていなくなれないなぁ。

この夏があって、希死念慮が薄れた。

ゆっくりと、健康に生きていければいいか、と思えた大きな出来事だった。


数年前、発達障害と診断されてから
自分を受け入れることは本当に難しくて
随分と時間が経ってしまった。

でも今年を経て、かなり自分のことを受け入れられるようになった気がする。
そして、いい意味での自分への諦めもついた気がする。

もっと辛い人が世の中には沢山いる。
もっと頑張ってる人が周りには沢山いる。

でも自分は自分でしかない。

出来ることは多くないけど、
無理↔頑張れるのバランスをうまく取って

来年は周りの人を愛せるように、
自分のことも愛せるといいなと思う。

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