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「ばかばかしいアイデア」


ロシアのメドベージェフ大統領は西側諸国が約束を破ったと非難した。NATOの東方への拡大は、1990年のドイツ統一交渉での約束に違反した。西側の記録文書はロシアの正当性を裏付けている。

Der Spiegel 2009/11/23 第48号
Uwe Klussmann, Matthias Schepp, Klaus Wiegrefe、著

ロシアでは、ヴィクトル・バラネッツほど、数百万人の聴衆の前でNATOの東方拡大に対する怒りをぶつけることができる人はいない。タブロイド紙コムソモリスカヤ・プラウダ(「コムソモリストの真実」)のスター解説者は、「陰険で大胆な」西側軍事同盟を激しく非難するのが好きだ。
「ロシアはついにNATOをパートナーとして見るのをやめなければならない。」

裏切られたのになぜ共同作戦を考えるのか?NATOは「国境のすぐ近くまで大砲を引っ張ってきた」と、ボリス・エリツィン政権の国防大臣の報道官であった大佐は書いている。それはドイツ統一の過程でなされたすべての約束に反している。

モスクワでは、愛国者から共産主義者、プーチン大統領率いる統一ロシア党に至るまで、あらゆる政治陣営にわたって政治的コンセンサスが存在している。それは、西側諸国が約束を破り、ロシアが弱体化していたときにロシアから略奪したというものだ。
11月初旬、ドミトリー・メドベージェフ大統領は、モスクワ郊外の公邸でデア・シュピーゲルを出迎えた時、(ベルリンの)壁崩壊後「ヨーロッパにおけるロシアの地位の再定義」は失敗した、と嘆いた。ロシアは何を手に入れたのか?「NATOを際限なく東方に拡大しないこと、我々の利益が常に考慮されることなど、我々に約束されたはずのものはも何一つ手に入らなかった。」

1990年にモスクワが実際に何を約束したかをめぐって、歴史論争が勃発している。しかし、何が真実なのだろうか?

各陣営の言い分はさまざまだ。もちろん、NATOを「親指一本分も東に広げない」という約束はあった、と当時のソ連国家元首ミハイル・ゴルバチョフは今日もモスクワで語っている。一方、グルジアのトビリシにいるゴルバチョフの元外相エドゥアルド・シュワルナゼは、西側からはそのような約束は何もなかったと言う。東側の軍事同盟であるワルシャワ条約機構の解散でさえ、「我々の想像を超えたものだった」。

1990年当時、シュワルナゼのアメリカの同僚だったジェームズ・ベーカーは、何年もの間、いかなる合意も否定してきた。一方、当時の駐モスクワ米大使ジャック・マトロックは、モスクワは「明確な約束」を受け取ったと言う。1990年当時のボン外務省のハンス=ディートリッヒ・ゲンシャー外相は、それを否定している。

ゲンシャーは1990年2月10日午後4時から6時半までシュワルナゼと会談し、最近機密解除されたドイツ語のメモには次のように述べられている。

» ドイツ連邦大臣(ゲンシャーのこと):統一ドイツの NATO 加盟が複雑な問題を引き起こすであろう事は承知しています。しかし、我々にとって一つだけ確かなことは、NATOは東に拡大しないということだ。」そして会話が主に東ドイツに関するものであったため、ゲンシャー氏は明確にこう付け加えた、「NATOの非拡大に関する限り、これは一般的に当てはまる。」

シェワルナゼ氏は「ドイツ連邦大臣のすべての言葉」を信じる、と答えた。

1990 年は大規模な交渉の年であった。ワシントン、モスクワ、ロンドン、ボン、パリ、ワルシャワ、東ベルリン、その他多くの国々が、ドイツの統一、包括的な欧州軍縮、CSCE(欧州安全保障協力会議)の新憲章をめぐって争った。ソ連は、たとえそれが「東ドイツにあるソ連軍墓地の運命についてだけ」であったとしても、すべてを書面に残すことを主張した。しかし、よりにもよって、NATOの東欧進出に関する数々の合意には一言も触れられていない。

モスクワは何も主張できないと西側は言う。結局のところ、彼らは何も署名していないのだから。

厳しいが公平?*

1990年初頭、ソ連はエルベ川に軍隊を駐留させ、ドレスデンのSED地区指導者だったハンス・モドローが東ベルリンを統治していた。しかし、東ドイツの崩壊はもうすぐそこだった。

ボンの同盟国であるパリ、ロンドン、ワシントンは、統一ドイツがすでにNATOの一員となりうるのか、それとも歴史上以前にもあったように、東西間のシーソー政策を追求するのかという問題に関心を寄せていた。

ゲンシャーはこの不確実性に終止符を打ちたいと考え、1月31日にトゥッツィング(ミュンヘン郊外)で大演説を行い、西側諸国との協調を約束した。そこで彼は、統一ドイツも同盟(NATO)に属するべきだと述べた。

しかし、そのような解決策をソ連指導部相手にどう説得すればよいのだろうか。「そのハードルを越える手助けをしたかった」とゲンシャーは今日語っている。そこでボンの外相はトゥッツィングで、「NATOの領土を東に、つまりソ連の国境に近づけるような拡大はしない」と約束した。NATO同盟への扉は東欧諸国には閉ざされたままであるべきだ、と。

ゲンシャーは、1956年のハンガリー動乱のときのことを思い出した。反乱軍の一部はNATOへの加盟を希望していた。 西側同盟への加盟は、モスクワに軍事介入の口実を与えることになる。ボンの外相はゴルバチョフに、赤の帝国でこのような事態が起こることを恐れる必要はないことを伝えたかったのだ。西側諸国は、ソ連とともに、ソ連に対抗するのではなく、ソ連とともに変化を形成したかったのである。

トゥッツィングで発表されたゲンシャー・プランは、この時点でまだ(コール)首相とも同盟国とも合意されておらず、このハレ出身の外相は後日キャンペーンを行った。

ゲンシャー外相は当時、「多くの触角で周囲を探査し、抵抗を感じたら引っ込む巨大な昆虫のような用心深さで動き、準備をしていた」と、後にゲンシャーの事務局長フランク・エルベは記している。

ベーカー米国務長官は現実主義的なテキサス人であり、「すぐにこの提案に好感を持った」。2月2日、両外相はベーカーのワシントンの書斎で暖炉の前に座り、上着を脱いで足を上げ、世界の行く末について話し合った。すぐに意見が一致した。NATOの東方への拡大はない。「それは絶対に明らかだった」とエルベは報告する。

その直後、ダグラス・ハード英外相が独米のコンセンサスに加わった。ゲンシャーは1990年2月6日にボンで会談した際、比較的ドイツに友好的なイギリス人に対し、異例なほどオープンだった。このことは、これまで知られていなかった外務省の文書が示している。ハンガリーでは初の自由選挙が行われようとしており、ボン外相はソ連が「政権が交代してもハンガリーが西側同盟の一員にならないという保証を必要としていた」と説明した。このことをクレムリンに保証する必要があった。ハードはこれに同意した。

しかし、そこには永遠の価値を念頭に置いた約束があったのだろうか?英国の資料によれば、2人の同僚がポーランドについて話していたとき、ゲンシャーは、ワルシャワがある日ワルシャワ条約を脱退するとしても、モスクワはポーランドが「翌日にはNATOに加盟しない」ことを確信しなければならないと述べたという。一方、タイムラグを伴う加盟については、ゲンシャーは否定しなかったようだ。

ゲンシャーがモスクワで自分の考えを発表するのは当然だった。彼は西側諸国の外相の中で最も長く在任し、ゴルバチョフやシュワルナゼとの関係はヘルムート・コールよりも良好であった。しかし、ベーカーは次のモスクワ訪問で自らこの問題を提起することを望んだ。

1990年2月9日、クレムリンの壮麗なエカテリーナ広間で米国務長官が宣言したことは議論の余地がない。もしソビエトが統一ドイツのためのNATO加盟に同意すれば、同盟はその勢力圏を「1インチでも東に」拡大することはない。ゴルバチョフは、「NATO圏の拡大は容認できない」と付け加えた。

20年経った今でも、ゴルバチョフはこのエピソードについて尋ねられると、「アメリカの政治家など当てにならない」と憤慨する。その一方で、ベイカーは彼の登場について異なる解釈を広めている。1990年当時、彼は同盟の中で特別な地位を与えられるはずだった東ドイツについて語っただけだった。それ以上のことは何もない。

その1日後(2/10)、シュワルナゼとの会話の中で、ゲンシャーははっきりと東ヨーロッパについて言及した。

ソ連指導部を刺激しないために東ドイツにNATOの特別な地位を与えるのであれば、東方不拡大の約束には、ソ連と直接国境を接するハンガリー、ポーランド、ロシア社会主義共和国(CSSR)などの国々も含まれなければならなかった。

数週間後、西側の政治家たちが再び顔を合わせたとき、彼らはオープンかつ素直に話した。「中央ヨーロッパ諸国はNATOへの加盟を望んでいるようだ」とベーカーは言った。ゲンシャーは、これは「今のところ触れるべきでない」問題だと答えた。ベーカーも同意した。

当時の指導者たちは今や年をとり、彼らの記憶も時々怪しくなる。ゴルバチョフはNATOの東方拡大への扉をしっかりと閉められなかった人物にはなりたくない。ゲンシャーとベーカーは、ポーランド人、ハンガリー人、チェコ人の頭越しにモスクワと取引したと非難されたくない。また、シュワルナゼは長い間、NATOの拡大は「何も問題ない」と考えてきた。彼の母国グルジアが加盟を望んでいるのだから無理もない。

当時は利害が異なっていた。ボンとワシントンはドイツ統一をできるだけ早く進めるつもりだった。クレムリンでの会談の数日後、ゲンシャー、ベーカー、シュワルナゼの3人は、今度はNATOとワルシャワ条約機構の全外相とともに再び会談した。

カナダの首都オタワの旧中央駅を改造した建物で開かれた軍縮会議では、ドイツの2人の外相(ドイツ民主共和国=旧東ドイツ側はホーネッカー政権のオスカー・フィッシャー)が、第二次世界大戦の戦勝国4カ国の同僚たちとともに、廊下や隣接する部屋に座ったり立ったりしながら、さまざまな状況におけるドイツ問題のさらなる進展について話し合った。最終的に、同盟の問題や連邦軍の規模の問題など、統一の対外的な側面については、いわゆる2プラス4交渉(ドイツ最終規定条約のこと)で明らかにすることが決定された。

ゲンシャーは今日、重要なことはすべてこのフォーラムで話し合われたはずであり、そこでは東欧諸国をNATO加盟国から除外しようなどという話は一切なかったと語っている。

では1990年2月10日のシュワルナゼに対するゲンシャーの発言は?

それは実際の交渉の前に、同盟問題でのモスクワの立ち位置と、作戦の余地があるかどうかを確認するための「フィーリングアウト」だった。それ以上のことはない。**

これが公式見解である。しかし、それだけではない。

ドイツ外務省のある外交官は、もちろん双方にコンセンサスはあったと言う。確かに、もしソ連が、後にNATOがポーランドやハンガリーなどの東欧諸国を加盟させることを知っていたら、2プラス4交渉には参加しなかっただろう。

それでも、ゴルバチョフとの交渉は難航した。西側の政治家たちは、「一方的な利益を得ることはない」(ジョージ・ブッシュ米大統領)、「東西間のパワーバランスに変化はない」(ゲンシャー)と繰り返し断言した。少なくとも1990年の協定の精神は、今日ロシアによって正当化される可能性がある。

1990年5月末、ゴルバチョフはついに統一ドイツの(NATO)同盟加盟に同意した。しかし、ゴルバチョフとシュワルナゼは、まだすべての切り札を持っていたのに、なぜその約束を文書化させなかったのだろうか。1990年初頭、ワルシャワ条約機構はまだ存在していた。NATOがワルシャワ条約機構加盟国に拡大するという考えは、当時はまったく馬鹿げていた。

西側の指導者の中には、クレムリンの指導者とその外相が現実を直視することを拒否し、大国としてのソ連の衰退を「受け入れようとしなかった」(ベーカー)という印象を持った者もいた。

一方、バルト三国はまだソ連に属しており、NATO加盟は何光年も先のことのように思われた。また東欧の一部では、ヴァーツラフ・ハベルのような平和を求める反体制派が政権を握っており、彼らは当初、ワルシャワ条約だけでなくNATOの解体も望んでいた。

その初期段階において、NATOへの加盟を望む東欧の政府はなく、西側同盟も新規加盟国を受け入れることは考えていなかった。費用がかかりすぎるし、モスクワへの不必要な挑発になるし、最悪の事態になったときにフランスやイタリア、ドイツの兵士がポーランドやハンガリーのために命を犠牲にする必要があるのだろうか?

しかし、1991年にソ連が崩壊し、数十万人の死者を出したボスニア紛争によって、東ヨーロッパのバルカン化への懸念がいたるところで高まった。そしてアメリカでは1993年以降、ビル・クリントン新大統領が西側同盟の新たな課題を模索していた。

突然、誰もがNATOへの加盟を望み、NATOもすべての人を加盟させようとしたのである。

かくして歴史をめぐる論争が始まったのであった。

*原文 Hart aber Fair
戦後ドイツサッカーの解説で厳しい判定時によく使われるようになった。
厳しい判定だが公平である。受け入れるしかない、の意。
2001年に公正さを謳った政治トークショー「Hart aber Fair」が始まったが
最近司会者が緑の党と関係があることが暴露されて「公正でない」司会の偏向ぶりが批判された。

**参考動画
ゲンシャーとベーカーの「NATOは東方拡大しない」という発言はしっか記録に残されている


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