徹底的に「ラクして生きる」を正当化しよう-"サボる才能"と人生の抜け道・裏技について

人生とは、社会とは、"真面目でいい子だから得をする"ほど単純な構造ではない。例えば、義務教育で授業ノートを綺麗に取っている生徒は勉強ができるだろうか。答えは「ほぼNO」である。勉強が得意な人ならお分かりの事だろう。授業ノートを1回取るくらいなら、該当箇所の教科書を5回読んだほうが良い。義務教育において使われる教科書は、編集委員に東大名誉教授などの研究者陣が連なる、いわばその分野の第一線の人材が執筆した最高峰の教材である。言うまでもなくほとんどの中学の教員の板書では足元にも及ばぬ崇高な内容であり、同時に、多くの予備校や塾の講師が作る教材とは質が格段に異なる。こんな事は、教科書の後ろのページの編集委員の欄を見ればすぐにわかるし、少し頭を使えば気づく事実なのだが、これに気づかないで真面目にノートを取る子たちが損をする。「苦労した」のに「損をする」などあってはならない。しかしこれが世の中の真理の一つである。このように真面目な人が損をするとなれば、考えるべきことは一つだ。

徹底的に「ラクして」人生を勝ち抜く方法を考える。

ラクをして、サボって、宿題を出さず、ノートを取らず、学校に来ない学生は「叱られる」事が多いだろう。しかしこれ、何故なのだろう。ラクをすることが悪であるとは限らない。ある種、ラクとは合理性の究極である。ノートを取らないと言う行為でラクをし、その分浮いた時間で教科書の本文を眺める。書くより読む方がラクなので、少ない時間でより多くその事項に触れられる。結果、ノートを真面目に取るより、ノートを取らずラクをした学生の方がテストの点数が良いと言う結果になる事がある。学校をサボって何が悪いのだろうか。サボった時間の分ラクになり、好きな事に時間を当て、才能が開花するとしたらどうか。

私は自身の経験から、義務教育とは徹底的にラクをする方法を模索しつつ、いかに上手く面倒事をサボるか、この能力を伸ばす上で非常に有意な期間であったと見ている。

ノートを取らず、宿題をやらず、そのかわり合理的に勉強でき、その結果試験の点数がよく、最終的に私は地元の公立進学校に進んだ。偏差値が高い代わりに自由で校則がほぼ無いとされていた高校だった。そして実際その通りだった。私は遅刻欠席が大変に多かったが一度として親に連絡すらなかった。パーカーを着て登校しようと、髪が金髪だろうと、ピアスが開いてようと関係なかった。その代わり、生徒が各々合理的に勉強していて、周りの級友は頗る頭が良かった。同期から旧帝大や早慶、医学部に多くの進学者が出た。自分も1浪などを経て最終的に有名大の学生になった(のちに記すがちょい訳あり)。小中高と徹底的にあらゆる事をサボりまくったし、我が家は決して裕福ではないが、平均以上の人生を歩んでいる気がする。

真面目で優秀な学生が内定0 大学中退ドロップアウト者が内定 なぜなのか

私の友人は真面目で優秀な学生であったが、コロナ禍で内定が0となり、就職浪人が決まった。周りと同じように真面目に資格を取り、真面目にフル単し、真面目に就職活動をし、全滅してしまった。

そのころ私は、大学3年の夏の時点で総単位数がわずか48単位となり、留年が確定していた。外国語の単位を考慮すると2留しても卒業は不可能であった。大学の講義が面倒くさかったりするとすぐにサボっていたからこうなった。私は嫌なことからはすぐ逃げる性格だ。すでに1浪をしていたので年齢的にもこれはしんどいと思い、そのタイミングで大学を中退。朝起きるのも苦手だし、卒論も嫌だったし、再履修も何もかも面倒くさかったのでサボって逃げた。半年ほど完全なるニート期間を甘受した。その期間はもの凄く幸せで楽しかった。徹底的にラクをした。その代わり、そのあとすぐに地方公務員の試験を受けた。地方公務員は年齢の要件を満たせば学歴を問わず受けられるので、まず過去問を解いて試験に出る項目だけに絞って該当するWikipediaやネットの記事を読み、勉強期間1ヶ月半でそのまま受けて内定した。県内で2〜3番目に給料の良い自治体で、役所が実家から車で10〜15分の好立地。22歳で社会人になれる事が決まり、その結果として1浪で失った1年も取り返した。大学は8年くらいかけてゆっくり卒業したかったので、ほぼ同時期に都内某有名私大の通信課程の経済学部に移った。

また、その頃私はアルバイトすらしていなかった。元々は大学1年から時給900円で働いていたが、安い賃金で働くのが嫌になり1年半でやめた。その代わり、持ってた有り金を全部株式投資に突っ込んだ。ニート期間の6か月も勉強期間として活き、結果的に大学生が稼げる額の範疇を大きく超えた収入源を手にした。株はゲームみたいでひたすらに楽しい。そのため、アルバイトよりはるかに「ラク」であった。地方公務員という選択をしたのも、株という収入源に大きな可能性を感じたからである。株という存在のおかげで、お金持ちになる上で別に大手企業を目指したり起業したりする必要が無くなった事で吹っ切れたのだ。

ラクをするほど人生が良い方向にベクトルを向ける。何故か。それはラクとは合理性の究極だからである。

ラクして生きるを正当化する

ここまででお分かりと思うが、ラクをするとは、非常に合理的に頭脳を使う必要がある。不必要な事項を削ぎ落とし、必要な事項のみに絞って物事をスリム化する。合理性の伴ったミニマルな思考回路が"ラクして生きる"を正当化する

当たり前のようにノートを取らされることに疑問を抱ける批判的思考力、なぜ宿題が必要なのかを考え、その結果「以下の理由で宿題は自分には不要」と結論付けられるだけの自己分析力、こうした能力もラクして生きる上で求められる。

世の中、どうもラクをする人間を批判する風潮があるように思う。真面目で頑張り屋さんを評価したい、その気持ちはわかるが、後々結果を出すのは、合理的に立ち回った人間である事が多い。偏差値の高い進学校に行くと、各々が勉強時間を自慢するのではなく、いかに勉強時間を削ったかを自慢する、そう言う環境がある。これは、偏差値の高い高校の特徴の一つである。そうして己の合理性を説き、競い合おうとする。有名な大学になるべくラクして行き、少しでもラクして大手企業や公務員に内定、あるいは起業などをしたい、多くの優秀な人はそう考えているのかもしれない。


人生なんて徹底的にラクすればいい。死ぬほど頭を使って常に抜け道・裏技を探す。

そう言う生き方は悪くない。私はそう思う。

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