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シャリキンで得る楽しさと失う記憶

pityという単語はこんなにも響きが可愛いのに「残念」って意味なのめちゃくちゃ不思議だなと高二で思ったことを毎回思い出しながらpityという単語を使う。あとこんなにも形容詞ヅラしてんのに名詞なんだよなと思いながらaを付ける。
pから始まる単語は響きが可愛いのにネガティブな意味の単語が多いなとこれまた高二の時に思ったことも一緒に思い出す。panic/poor/pee/puke など、など、、、統計的にはそうでも無いのかもしれないですけど。

なんでpityにこんなにも思い入れがあるのかというと、高二の時にわたしは英語のスピーチ大会にしれっと出ており、熊本国際大学(多分)まで行ったあの一連の日々を何やったんやと度々思い出すからなのである。自分が何を喋ったかはてんで覚えちゃいないけど、別の子の作文に登場したpityという単語への気持ちが強い。
あの日おそらく初めて大学という土地に足を踏み入れて、台車の上に女の人が座ってそれを別の女の子が押して進んでいるというめちゃくちゃどうでもいいが、なんとなくめちゃくちゃ大学生的な行為を見て、大学生というものの輪郭を把握したという思い出もある。

高校生の頃、もっときっと何かできたはずなのにとなんだか漠然としたやりきれなさを感じることがある。島だからといって諦めてたことが私には多い。多分みんなもそう、わかんないけど。
カルチャーへの距離感が遠かったことに対しての嫉妬心がデカくて普通に都会で育った人のことを未だに羨ましいと思うことがある、というか地元にTSUTAYAがあった人間を心底羨ましいと思うくらいには何もなかったし、何も無いなりに何かを生み出すこともなかったことを悔しく思ったりするんだよ。

私にはりーこという地元の友達がいて、最近は1ヶ月くらい間が空いてたけど基本的に週1、2多い時は4会っている。昨日久しぶりに会って話した時に今全てのものへの好奇心が高まっていて、音楽も映画も本も楽しいって言ってた姿に感銘を受けた。りーこは昨日Spotifyの機能に感動していた。
私もかつてはそんな気持ちでがむしゃらに全てのカルチャーを掘りに掘りまくっていたのに今となっては受動的な流れにただ身を任せるだけの日々になってしまっていた。今楽しくカルチャーを享受してるりーこはめちゃくちゃキラキラしててすごい楽しそうで、その面持ちで僕も改めて色んなものを見ていきたいよと明るい気持ちになった。

そのりーこが昨日歩いてた時にふと共和党の建物を見て、トランプの銃撃を思い出し、あの銃弾の避け具合はすごかった「あらァ勝つばい!!!」ってすごいハキハキと大きな声で言い放った姿が本当に面白くて、デカい声は面白いし、方言も面白いし、思わず地面にしゃがんでしまって文字通り腹を抱えて大声で笑ってしまった。

こんなおもしれ〜女を生み出した島のことを私は結局愛さずにはいられないんですよ。

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