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徒然言うてますけれども日記

きみだからさびしいという小説を読んだ。おもろい以外いらんねんという同じ著者の本がおもろいという話を聞いて、そういえば数多なる積読の中にこの人の本があったなぁと思って読んだ。葛飾区の公園まで向かう行きしなの1時間で8割読めてしまうほどの文量だったけどすごくよかった。主人公のように無気力で、ただ時にありえないほどの引力で人に近づいて、だけど自重して、という磁力が丁寧に綴られていて本当に良かった。多分三章まであって、三章だけ残して電車を後にしたんだけれど、その後三章だけを読んで思うに一、二章が良すぎた。主人公を軸として周りにいる人々のことを細かにディスクライブ(ディスクライブの日本語が今何故か全く出てきません)していないのに、それぞれの心の動きとか、行動の理由に共感できたのはなんだったんだろう。

積読という言葉はいつできたんだろう。昔は無理矢理でも読み切るという気力があって、どんな本でも最後まで辿り着く体力があったけれど、ここ何年かは集中力自体がなくて最後まで読み切っていない本が結構ある。途中でインテンスな話の展開についていけなくて読むのをやめた本もある。最後だけ知りたいからあらすじ検索して満足した本もある。

そもそも、わたしはネタバレをあんまり気にしないたちではある。とりあえず早く最後に辿り着きたいという気持ちが強くて、わからないということがストレスで、倍速で見るし、ネタバレを見ながら映画も、ドラマも、本も摂取していた。ファスト社会すぎる。映画を早送りで観る人たちみたいな本も買って、その本を読めば自分のこの行動の心理がわかるかなと思ったりしたんだけどそんなわけでもなかった。そういう理由じゃないんだよな、と思ってその本も積読に加わった。

しかし、ここ数ヶ月でやっと物語を享受する余裕が出来るようになった気がする。ここ一年、ここ数年かもしれないけどかなりファストなものしか受け入れられない期間があった。目に見えて楽しいものしかわからない時間が多かったような気がする。私は本当に落ち込んだり元気がない時にAKBしか見れない、聞けないという時期があって、シームレスにAKBに辿り着いた後に私って今もしかして疲れたり、落ち込んだりしているのかもと俯瞰でおもったりすることがある。コナンを1から見直していた期間も多分そんな理由でわかってることを1から全部説明してくれるというあけっぴろげな感じしかもう受け入れられなかったんだね、と思う。この期間に見た映画とかに対しては須く怒ってたし、本当に良くないけど、文化的であることが何になるのかと思ったりもしていた。

思っていただけで今は全く答えはないです。

嫉妬とは何か、考えることもある。身近な人にかなり嫉妬することもある。それはきっと私が歩みえた未来なような気がして、でも歩みえなかった自分がいて、そこに明らかな理由はあるのにわからないふりをして嫉妬してしまったりする。嫉妬っていうのは、わたしがその立場になり得たのにという傲慢な思いから辿り着く、その時の自分の理想の未来なんだと思います。

これたぶん深掘りしたりしたら面白いテーマなんだけどちょっと目が痛すぎるので風呂に入って寝ます。
あと15分で11時ですが、今日も11時になったら風呂に入るのでたくさんの関心と応援をよろしくお願いします。

かしこ

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