かのこメモ 20150308
『共感』というのは、「あるある〜。わたしもそう思う〜!」「うんうん。分かる〜。一緒〜。」ということではなく。
いま目の前の人が語ることや行動を、その人の視点になって感じて受け取ることです。
そこには「分かる〜」ではないことも含まれる。「そうだったんだね」「わたしには分からないけれど、辛い感じがするね……」などと、あたかも相手になったように体験し、感じてみる試みであり、そのプロセスで初めて『共感』が生まれる。
この『共感』というのは、不思議な力を持っている。「励まし」や「応援」より、力づけしてくれることがある。
特に弱っているとき、迷っているとき、いき詰まっているとき、あるいは怒りに駆られているとき、悲しみに包まれているとき、空虚を感じるとき、身近な人の『共感』が大きな助けになることがある。
わたしの先輩格の友人に、『聴き合う社会』というテーマを掲げて対人援助の活動・仕事をしている専門職がいる。わたしは、このテーマにいたく感動し、わたしもまた「聴き合う」ことを伝えていきたいと思う。同時に、少々皮肉な話だが「自分が聴いてもらえていないな。」と感じるたびに、逆に自分は「聴けているだろうか」と自問してみたりする……こともある。なかなかに難儀なのだが、できるだけ自問をするようにしている。
「聴く」こと。言葉で言うは簡単だが、例えば10分間、相手の話をただひたすら聞く(聴く)ことをやってみてほしい。決して口を挟んではいけない。可能な限り、相手の話に「肯定の気持ち」を持って、時にはうなづきつつ、ひたすら聞く(聴く)に徹してみる。『共感』とは、その延長に生まれてくるものだ。
人々が他者の表現に耳を傾けるということ、その感覚をつかんでゆくことは、ひいては自身をも受け入れてゆくことになり、社会や世界を受け入れてゆくことにもつながる。
ただ一度二度の体験だけではピンとこないかもしれない。なにしろ、世は「主張」するという形の表現は推奨するが、「聴く」「受けとる」ということの体験やレッスンは、ふだん頭にものぼらないほど少ないからだ。それは上述したとおり、「10分間、ただただ人の話を聴く」という体験をしてみればすぐに理解できるだろう。
一人ひとりが「聴く」試みを続けることで、一人ひとりが自分の力を信頼できるようになり、他者を信頼できるようになり、社会や世界があたたかい関係を築ける形になってゆく……のだと、自らが折れそうになっているときほど、想いを馳せてみる。……ちょっぴりの自戒を込めて。
さぁ。今日も「聴く」日だ。
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