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謎のシリーズ1:自分を表す言葉が増える

「ネガティブ」と「ポジティブ」は分かれているものではなく、「感覚/感情」と「理論/思考」も分断されているわけではないはずなのだが、世間に放り出されると、なぜか分かれがち。であるように感じる。などと、まだ嵐はご近所に滞在中の雨天の昼に、やっと眠りから明けていきなりコレ。

突然なんだ? という感じですが、久しぶりにわたくしの真髄に焦点をあててアウトプットできそな気がしたので、サクッとですがテキスト化します。

今朝というか昼過ぎに目覚めてぼわ〜としていましたら、久しぶりに言葉の連なりが降りてきまして、急ぎトークノートに記したものが上記引用です。

このあと、さらに頭ん中をモサモサと動き巡る言葉たちがおりまして。
出てくるがままに記し、打ち込んでゆくわたしなのですが、そんな取り留めもない、しかも七面倒くさいつぶやきに反応してくださった若干名(笑)。
ありがたいです。ありがたい。ありが太陽。(←お約束)

某かのリアクションや感想・フィードバックをいただくと、不思議なもので、さらにヒラメキが起きたり、思考が整理されたりすることも多い。
今日は、それがうまく廻りました。(たぶん)

一連のやりとりは こ ち ら で読んでいただくとして。

整理されてきたものをどうにかアウトプットしてみたいと考えていたところ思い出したのが、過去ブログに書きしたためていた記録。

前説や概説は抜きにして、そのまま読んでいただく方が分かりよいかもしれないと思いました。以下ブログの転載です。一読いただけたら幸いです。


◆表現アートセラピーをとおして得たこと・助けられたこと
 〈シリーズ:1〉「自分を表す 言葉 が増える」

かつて私は“自分を表す言葉”を持たなかった。長らく、持っていなかった。
話をすれば先に他者のことを、まるで自分のことがごとく口に出した。
どこからか拾ってきた情報や話を、あたかも自分からはじき出したかのように語った。

自分のことを聞かれたり、どんな風に思うのか、感じているのか、突っ込まれたりするたびに、急に(自分勝手に)自信を失い、それを明かされまいと周辺ごまかしながら始末した。

そんな風に、自分の奥底でくすぶってる問題を棚上げして、だましだまし暮らしていた私。
しかし30代に入ってまもなく、人間関係や恋愛、仕事、お金もろもろが破たんし、自分の力ではどうしようもなくなるところに出くわした。
ある世界で“底つき”と言われるものである。

(今おもえば、“底つき”は1度ではなく、違う形で2度目にも出くわしていた。もしかしたら3度目もあるかもしれん。…ていうか、そんなものは「底つき」というのか?w)

それからの私は、どうにもこうにも自己に向き合うしか無くなり、いわゆる「自己回復」の路を辿りはじめるのだ。
当時アートセラピーを学び始めていた私は、人さまの癒しに関わる前に自分の癒しが必要だ!と、心理療法・カウンセリングに通ったり、自助グループの助けをかりながら、学びもほそぼそと続けた。

この世界に足を踏み込み10年がとおにすぎたが、かつて「ものごとが続かない」と言われ続けてきた私が(細々とでも)ひとつの世界に居つづけているというのも不思議な話だ。

ともあれ。私はじょじょに、本当に少しずつ、「自分を語る言葉」をおぼえ始めた。自分が主役の脚本再構築の始まりである。



しばらく経ったころ、私はある臨床心理系の方から『表現アートセラピー ―創造性に開かれるプロセス』(誠心書房,2000)という本を紹介してもらった。

クライエント・センタード/パーソン・センタード カウンセリングを立脚した高名な心理学者カール・ロジャーズの娘であるナタリー・ロジャーズ氏が書いた本。
その邦訳をされた1人が、後に私が「パーソン・センタード表現アートセラピー」を学ぶために関わりを持つことになる私の師匠だ。

私はこの『表現アートセラピー』という本に目を通すうち、だんだんに身体中が熱くなり、私の身体そのものが本の中に入ってしまうかのような勢いで、表現アートセラピーに取り憑かれてしまった。

ほぼ同時期、思えばこれもまた不思議なことだが、ナタリー・ロジャーズ博士が日本でワークショップをやるという情報を伝えてくれた人がいた。
私はほかのワークショップに参加しようと考えてた矢先で、さらに自我がまだ不安定な時期でもあり、その後どうしたか実はおぼえていない。
確かなのは、私はまだナタリーさんに会ったことがないということ。

そんなこんなすったもんだしながらも通信制大学を6年かけて卒業した私は、その間にも、あるアートセラピーの学びを持つグループに属し、ステップアップとして研究所にて表現アートセラピーのワークショップや講座を受け始め、ついにトレーニングコースを受講し始めた。

このコース(約1週間の合宿形式×6コース)での体験は、私の生き方・在り方に大きな変容をもたらしたと同時に、自らが元々持っていたエネルギーを改めて開花させ、さらに育んでいくパワフルなものだった。

表現アートセラピーは、セラピーゆえに、誰かのために表現をするというより、自分自身の「今ここ」をこころと身体とたましいで感じることや直観のままに描いたり、動いて表現してみたり、立体造形してみたり、声や音で表してみたり…する。

また、あらわれたものを文章創作してまとめたり、言葉をつづったり、自分以外の人や動植物やモノになりきって演じることを通して、自身の深い部分とつながり自己発見してみたり…することもある。
だから必然的に「自分のこと」が中心になる。

他者のために表現することが一時的にあっても、それすら自分自身の身体を通り、自らと共鳴して自分自身の糧になるのだ。
さらに自分自身の中で再構成されたものが、また他者へのギフトとなることもある。

そんなワークをグループでやったあとは、必ずシェアする時間を持つ。
このシェアの中では、周囲の人や情報、他者を主語にしたものではなく、自分:わたしを主語(Iメッセージ)にして「自分の体験」を話すのがメインになる。



この一連のアクティビティを重ねるごとに、自分自身がなにを感じ、なにを必要とし、どう在りたいかなど、だいぶ自己認知できるようになってきた。
同時に、それらを「言葉ではない表現」で表すことで、意識上では出てこなかった想いもよらない言葉が生まれた。

もちろんこの言葉たちは「自分:わたし」を表す言葉で、それまでより深みをもち、より具体的に自分に寄り添った言葉として生まれてくるものだった。

そこで気づいたことは、人は、言葉で分かりあおうとするけれども、言葉はさまざまな表現の中のほんのひとつでしかないということ。

人は古代から、弔い・祝いや情報伝達・コミュニケーションで、踊り舞い、唄い、音を奏で、描いたり飾りつけたり掘ったり積み重ねたり造形したり、捧げたり籠ったり、何者かになりきったり祈ったり…さまざまな「アート(アーツ)」を通して生きてきた。
それらは代々さまざまな形で引き継がれ、現代では「伝統」や「古典」などとして継承されている。

つまり、私たちのずっとずっと奥には、これらの表現エネルギーがすでに備わっているということ。
イロイロやってみることは自分をよりイキイキとしたものにし、世界観を拡げ、大きな気づきをもたらし、より創造的(クリエイティブ)になれる。
自分自身が(潜在的な)自己と結びつき、そのプロセスからドンドンと言葉も生まれてくる。


私が表現アートセラピーを通して得たこと。助けられたこと。

その1・「自分を表す言葉が増え、他者と関わるときの言葉が増えたこと」


以上がブログの記事です。

トークノートでやりとりした中で出てきた

はい。わたしのなかでも「ネガティブ」も「ポジティブ」も《つながって》いるんですけれども、とかく広い(のではないかも?)世間に出てゆくと、意外に分断されて存在してるように観えてしまうというか…。

「感覚/感情」と「理論/思考」も同様に。。たとえばの話ですが、身体で感じたことを感じきって表現したり受け止められたりしているうちに、そこから新たな言葉が生まれたり、誰かと共有していれば共通の概念とか言葉が生まれたり、人って無意識のうちに「感覚/感情」と「理論/思考」を行ったり来たりしながら自分を表現したりコミュニケーションしてると思うんです。

それが“世間”に出ると、「感覚派」と「理論派」とかで分かれて存在しがちな印象を受けたりして、「どっちも(受け入れたい)派」のわたしにはキツイなあと。そんなことをずっと模索しつづけてるので、なんとまぁ起きぬけにこんなん出てきたらすぃ( ̄◇ ̄)

(※読みやすいように改行差し込みました↑)

というわたし自身のコメント文は、ブログ記事に書いたような体験・プロセスの積み重ねから学んだことがベースになっているのだなあと、改めて認識しました。そして、その体験やおもしろさを伝えていきたいという想いが、今も強くあることを自覚した。

ここ数年のわたしは、『伝わる・伝える』をどうするかについて時間をたくさん使ってきたようだ。だから、それらが共有できない状況がキツくて苦しくて悲しくて、ある場所から去ったのかもしれないなあ。。

……なんだか話しズレてきてますが(汗)、

つまり、人の中の “相反する(ように感じる)もの” の存在ってのは、
「創造する(クリエイト)」というテーマにもつながるし、
わたし的には「癒し」や「治癒」あるいは「自己を受け入れる」というテーマにも重なってくるのです。

そしてそれは、たとえば、頭ん中で想像するだけでは消化不良だろうし、
身体動かしてるだけでも、物足りない。

なんとなく、尻切れトンボぎみだけど…
そんなことを想い浮かべながら、ひきつづきタイフ〜ンの影響下にある雨天の週末夜に、ようやく頭が廻ってきてまとめてみたコレ。しかも、次のタイフ〜ン近づいちょるよコレ。

ふ。書き終えて。ただいま時刻は1:23。(特に意味なし)


続編……あるかも。

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