荒野のコトブキ飛行隊 について
『荒野のコトブキ飛行隊』は1クールのTVアニメである。今年、『荒野のコトブキ飛行隊 完全版』と銘打った映画が公開された。
それを見て感じたのは、この映画の中で描かれている荒野は終わらない、という安堵だった。
それは荒野という、ある種の映像作家にとっては楽園とほとんど同義な舞台、世界に、残酷にも「おわり」の三文字を叩きつける映画を以前に見ていたからだ。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』である。
『カスカベボーイズ』のラストはしんちゃん映画という枠があり、その中に西部劇というもう一つの枠がある、という構造に対して、これ以上ない形で落とし前をつけるものだった。
『カスカベボーイズ』での荒野は、映像作家にとっての楽園でありながら、登場人物にとっては寒々しい牢獄でもあった。そして観客は、楽園であり牢獄であるという、その両面をじっくりと味わうことができた。だから、終わらせなければならない、でも終わってほしくない、という真反対の感情に引き裂かれながら、あのラストを迎えることになる。
娯楽映画としてのカタルシスを十二分に味わいながら、同時に大きな喪失感を抱えることになる。
対して、『荒野のコトブキ飛行隊』である。
『カスカベボーイズ』の後も『ガールズ&パンツァー』『SHIROBAKO』など、自作品の多くで西部劇愛を表現していた、いやねじ込んでいた水島努が満を持して『荒野の』と掲げ、一本のTVシリーズを作ったのだ。
そこに描かれていた荒野は、まさに映像作家にとっての楽園だった。寒々しい牢獄ではない。
どこまでも続く荒野を縦横無尽に飛び回るレシプロ機。この荒野は劇中劇の舞台ではなく、はじめからあり、今もある。『荒野のコトブキ飛行隊 完全版』はそういう映画だった。
実際、『コトブキ』は続いている。『荒野のコトブキ飛行隊 大空のテイクオフガールズ』というアプリゲームで、後日談がはっきりと描かれているのだ。それが「この荒野は終わらない」という安堵感を裏付けていた。しかし、「おわり」の三文字は、やはり私達の前に叩きつけられた。
アプリゲーム『荒野のコトブキ飛行隊 大空のテイクオフガールズ』サービス終了という知らせ。結果的に、このゲームはTVシリーズと共に始まり、映画『完全版』とともに終わるということになった。
物語は続くし、当然、映像作品としての続編もいつか、と私は思っていた。しかし、終わるのだ。
『完全版』はいわゆる総集編だった。TVシリーズのハイライト・シーンに加えて、コトブキ飛行隊の結成が、映像を伴ってじっくりと描かれ、あの青いスカーフに、よりエモーショナルな意味合いを付加していた。他にも、追加されたのは戦闘シーンではなくドラマだった。飛行隊の5人の心情の動きを軸にして、TVシリーズと同じ物語を再構成する、という映画だった。
当然、TVシリーズの最終回にあたる場面が最後に置かれている。「続くこと」を強く意識させる会話が交わされ、TVシリーズと同じエンディング曲が流れる。
観客の多くはTVシリーズを見ていただろう。ゆえに物語が終わりに近づいていることには気づいている。一本の映画としてどう終わるのか、固唾を飲んで見守ることになる。一方で、終わってほしくない、という気持ちを強く持っている。やはり私達は2つの感情に引き裂かれていたのだ。
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