「ダレ」への忌避感について(途中)
「ダレ」への忌避感について。途中ですが公開します。
個人配信が行われるとき、多くの場合、そこにいるのは演者一人であり、カメラもマイクも一台ずつだ。ゆえに「ダレ」の除去は、何のカモフラージュ無しに行われる。このことが既存メディアにおける「ダレ」の除去を照らし出す。
そもそも、ラジオの時代から無音は「放送事故」だった。
ゆえに一人、もしくは一組のパーソナリティは喋り続ける。間は作家の笑い声によって埋められる。それでも「ダレ」が生まれそうなとき、曲がかかる。もしくはジングルがかかり、CMが始まる。
テレビ収録は複数のカメラとマイクを用いて行われる。
「カメラが切り替わった」と見る側が思うとき、同時に時間も飛んでおり、「ダレ」が除去されている。このことを意識してテレビをみていると、執拗なほどに「ダレ」の除去が行われていることが分かる。
「ダレ」への忌避感は、発信する側にはほとんど強迫観念のように刷り込まれている。
見る側にもだ。
CMが始まると視聴者はその場を離れる。もしくはチャンネルを替える。このことから、視聴者も「ダレ」を忌避していることが分かる。
YouTube、ツイキャス、Radiotalkなどの個人配信は、見る側が発信する側へ渡るためのハードルがとても低い。発信する側は、見る側の生理を強く残している。それを反映しながら、音声や映像のパッケージングが行われる。それで出来上がった編集物は、極めてテレビ的なものであったりする。
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