『ロンバケ』を解体する

大滝詠一本人の発言であったり、はっぴいえんどを起点とする見方からは既に十二分な量のテキストが出回っている。

一方で、シティポップの中にあって『ロンバケ』はどう振る舞うのか。まずはこのアルバムを、作詞、作編曲、演奏、録音にバラす必要があるだろう。

ほとんどの曲の作詞を手掛けたのは松本隆。言葉遊びや替え歌の要素は極力除かれ、ストーリーテリングの要素を強調したものとなっている。内容についてもリゾート的な題材が多い。少なくとも歌詞については大いにシティポップ的なアルバムだと言える。なお、『Pap-pi-doo-bi-doo-ba物語』のみ大滝による作詞。

作編曲ではフィル・スペクター、バリー・マンなど5,60年代の英米ポップスからの影響が強い。
大滝詠一は自作について語る際、楽曲の一つ一つを「メロディタイプ」「ノベルティタイプ」に分類する。ファンキーな16ビートが聴ける曲は後者に多い。それらはインストであったり、詞がついていてもほとんど意味を成していないものだったりする。

ここで、シティポップの典型をメロディ+ファンク+ストーリーテリングとする。それに照らし合わせると、大滝詠一作品の「メロディタイプ」はメロディ+ストーリーテリング、「ノベルティタイプ」はファンク、と大まかに分けることができる。例えばはっぴいえんど時代の『12月の雨の日』を再結成ライヴ盤のテイクと合わせて聞くと、「メロディタイプ」の作品にファンクの要素が合流する可能性は決して低くなかったと思えるが、ドクター・ジョン『ガンボ』に反応して作られたアルバム『ナイアガラ・ムーン』が、メロディとストーリーテリングをほとんど排してファンクをやった「ノベルティタイプ」だったことから、「メロディタイプ」をやるからにはファンクを排して差異を強調する、という意識が働いていたのかもしれない。

『ロンバケ』の演奏についてだが、基本的には黒子に徹してメロディを立てるという方針で一貫している。このため、歌モノの中に一流ミュージシャンの技巧を聴き取るシティポップしぐさでこのアルバムを楽しむことは難しい。むしろ5,60年代のポップスや70年代のシンガーソングライター作品のように徹底して歌を立てる堅実な演奏をしている。

演奏において80年代的な技巧がもっとも発露しているのが『君は天然色』である。フィル・スペクター経由のナイアガラ・サウンドの典型として理解されることの多い曲だが、例えばBメロのチョッパー・ベース、サビ前に滑り込むギターのピック・スクラッチ、サビで執拗に(シーケンシャルに)繰り返されるドラムのリズム・パターンなどはシティポップしぐさで楽しむことが充分に可能だろう。

『さらばシベリア鉄道』も曲想はジョー・ミークの手による60年代ポップスへのトリビュートだが、演奏の方は思いのほか80年代的である。オクターブ奏法を用いたベースが先導するリズム隊はほとんどディスコのそれだ。またギターソロも尺をたっぷりと取ってあり、歌と拮抗するほどに演奏の主張が強い曲になっている。

録音についても、60年代的な汚しを入れるでもなく、70年代的にデッドに仕上げるでもなく、紛れもなく80年代の音になっている。『君は天然色』『恋するカレン』といった楽曲単位ではなく、しばしばアルバム全体をして「フィル・スペクター的」と語られがちなのは、アルバムのほとんどの場面がリヴァーブによって空間を広げる80年代的な音作りで統一されていることが「ウォール・オブ・サウンド」のイメージとダブるからだろう。

ということで、『ロンバケ』には松本隆によるストーリーテリング、徹底的に「メロディタイプ」な作編曲、一流ミュージシャンによる隙のない演奏、80年代的にハイファイな録音がある。それゆえ、日本人としては「シティポップ的」と言ってあまり違和感を感じない。しかしこのアルバムには、ファンクだけがない。海外からの視点を導入した場合、シティポップは、まずファンキーであることがほとんど第一義である。ここで齟齬が起きているのではないか。

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