死という楽しみについて

死にたくなるのに明確な理由はない。ただ、何となく。窓から飛び降りたいとか、車の前に飛び出したいとか、遮断機が下りている踏切に入りたいとか、思う。それは好奇心に似ている。長いトンネルに薄っすらと射し込む光、それが死だ。光のないトンネルなら、歩くのはもっと大変だっただろう。トンネルの壁には美しい、幾何学的な紋様が描かれていて、それは動くのだけれど、触れるとそこから波紋が広がって、また新しい紋様を生み出していく。それが面白いから、もっと眺めていたいから、歩き続けている。死ぬ、というのは、壁の紋様の一部になることだ。その中から見える風景は、きっと今より素晴らしいものに違いない。そのときを楽しみに、歩き続けている。死にたいというのは、あるいは、家に帰りたいという衝動に似ている。ホームシックなのだ、多分。漠然と「ここじゃない」という違和感があって、居心地の良い場所に戻りたいと思って、ムズムズするのだ。禁じられた果実を食べたいという欲求にも似て、抗い難い誘惑。一度きりしか味わえない、最上級のご馳走。どんな味がするんだろうと思い巡らせる。所々に片鱗があるのを感じて思い焦がれる。これはそう、恋に似ている。あなたは向こうで手を振っている。わたしはこちらでやらなければならないことがある。それを終えたとき、わたしはあなたに会いにいける。それはどんなに喜ばしいことだろう。祝すべき日、幸いなるかな、わたしたちは再び一つになれるだろう。

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