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眠れぬ夜に

夢が降ってくるようにと祈りながら白湯を飲んだ。あったかくて、水からできてて、いのちみたいだった。白い蒸気がゆれうごきながら天へ少しずつ昇っていくのを見つめていると、彼が隣に立っていた。あ、同じだ、と笑みがこぼれた。「眠れないの?」彼は頷き、並んで座った。白湯が欲しい、と聞こえたのでもうひとつ汲んできた。「何これ」「白湯だけど」「財布が欲しいって言ったんだけど」「財布?」彼は財布を手にしていた、一緒に選んで買ったものだ、傷がたくさん入っていた。傷が増えるほど愛しい、と彼は言っていた、それを聞いたわたしは長く連れ添えるかも、と思ったことを思い出した。「2年と半年くらい? 使い込んだね」「今、キー挟まなくていいから、薄いの欲しいんだよね」「そっか」前みたいに財布に自分を重ねて動揺などはしなかった。大丈夫。安心してる自分に安堵した。「落ち着くね、この空間。配慮されてるよね」黒だけじゃなく、白、灰、銀や透明、そして緑がこの空間にはあった。重すぎず、軽すぎず、不思議と居心地のいい空間だった。静まり返っていて、互いに小声で話をしていた。そうだ、だから聞き間違えたのだ。「カフェインないほうがいいでしょ?」「そうだね」彼が飲むペースは、わたしよりゆっくりだ。けれど頭の回転は速く、よく舌が回る。「今月、ヤバいね」家計簿を見るのが趣味な彼は、いくら足りないか計算したあと、それを埋められそうなお金を数えていった。月の出費の目安をリスト化したのも、彼だ。「半年待とう。子ども作るの」「わかった」お金のことは、彼に任せておけば安心だ。穏やかな心持ちだったので、話せそうなことがあった。「この前、わたし、機嫌を悪くしたでしょう。あれね、一緒に充実した時間を過ごそうって思ってググりはじめたのに、アカウント変えられて、別の部屋行っちゃって、しょぼんぬだったの。だからおこおこになったの」「そっか。急に怒りはじめたから、なんでって分からなかった」「わたしがおこおこなのにつられて、おこおこにならなくても、別にいいんだよ?」いやそれは自然の摂理っていうか、と説明しはじめたので、わたしは反旗を翻した。「いや、だってわたしは、つられておこおこになったりしないし」それを聞いて彼は閃いたようだった。「そっか、甘えてるんだ」「ん?」「そんな些細なことで心乱されないで平常心でいて欲しいって、期待してるから、それが裏切られた気がして、怒ってるんだよ」「なるほどね」私自身にも、確かにそうなってしまう相手はいて、というか、ついさっき説明した出来事も考えてみれば、期待を裏切られた怒りだった。「甘えるのは、別に悪いことじゃないって思う」「それって、子どもがお母さんに、お母さんの役割を期待してるのも同じかもね」「そうかも」ふたりして、謎が溶けたという顔をしていた。「もう一杯飲む?」「うん」わたしが白湯を汲んで、戻ってきたとき、彼はいなかった。「あれ?」違う。不意にそう思った。違うって何が? わたしは座っていた、スクリーンを見つめていた、映っているのは祖母の顔をした、わたしだった。

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