Tea Time With Her
彼女は語る。
「夢を見ていたの。ずっと昔の、けれどずっと先の。月は涙を流していたわ。泉は満たされて、時の雫は流れ落ちる。降り積もる砂のように。星はたくさん輝いていたわ。きらきらと。くるくると。踊っていたわ、軽やかに、跳びまわるように。歌っていたわ、妖精のように。森の中で木々はざわめく。語らい合う影と光、その陰影の中で、俯きながら落書きをしている子供がいて。話し掛けたの、そしたら何て言ったと思う?――おひさまはまぶしいねって」
彼女はゆっくりとまばたいた。そして空を見上げた。
目を細め、何かが見えているかのように手を伸ばした。
――掴んだ。
「だから言ってあげたの。そんなものはどこにもないんだよって。眩しいと思うのはあなたであって、おひさまは眩しくなんかないんだよって。だってそうでしょう?林檎が赤いだなんてどうして言えるの?高いところにいる人が偉いだなんてどうして言えるの?泣いているから悲しいだなんてどうして言えるの?それを決めているのはあなたなのよ。悩んでいる人の苦しみも、困っている人の大変さも、痛いと訴える人の辛さも、あなたには何も分からないのよって」
「そしたらあの子は悲しそうだった。どうして僕は僕なんだろう。どうして誰かになれないんだろう。どうして誰にもなれないんだろう。どうして誰かのために何かをしてあげることができないんだろう。どうして誰かの代わりになってあげられないんだろう。どうして誰かのために生きることができないんだろう。どうして誰も助けてあげられないんだろう。どうして痛みを分かち合うことさえできないんだろう。どうして苦しみはたった一人のためなんだろうって」
彼女、はくるりと回った。
「あなたは誰かの代わりになれると思うの?その人の人生はその人のものなのに、あなたはそれを奪おうとするの?悩み、痛み、苦しんでいる姿が最も人間らしいのに、生きているといえるようなことなのに、あなたはその人からそれさえも奪ってしまうの?それはあなたの勝手な満足のためであって、その人のためじゃないのに。あなたはあなたのためにしか生きられない。それなのにあなたは誰かのために生きようとするの?自分を救えもしない人が誰かを救えるの?」
「そしたらあの子は怒ったわ。僕はそんなつもりで言ったんじゃないのに。どうして誰かを救おうとすることが間違っているだなんていうんだ。誰かのために生きようと誰もしなかったら世界は上手く回らないのに。そんな自分勝手な世界なら誰もいらないのに。自分さえもいらなくなってしまうのに。自分を救うために誰かを救うことの何が悪いの。救えないからといって救おうとしないことが良いことだとでもいうの?そんなのは間違っている、僕は認めない」
「初めてだったわ。あの子があんなに反発したの。……従順な良い子だったのに」
どうしてかしらね、と彼女は首を傾げた。
しかしそれはどこか嬉しそうだった。
うっすらと微笑みを浮かべながら――彼女はグラスを手にした。
透明に、きらきらと輝く。
虹色に、ゆらゆらと煌く。
その光を慈しむように、手を放した。
――ガシャン、と。
大きな音を立てて割れた。
床に散らばる破片。
「落下、それ自体に音はないのよ」
彼女はその一つを拾い上げた。
そして指先でころころと、転がした。
「だからね、背中を押してあげればいいの」
私がしているのはそれだけ。
そう言って、彼女はくらりと笑った。
透き通るような、色のない破片はとても綺麗だった。
「澄み切った空が落ちてくるような、こぽこぽと湧き出る水が囁くような、そんな声であの子はさえずるの。だから、邪魔しないでね?」
彼女は人差し指を唇に当てた。
「そう、いい子ね」
私は黙ってグラスの中の水を飲み干した。
氷がカラリと鳴って、彼女はふと時間に気付いたようだった。
「ご馳走さま」
彼女は席を立つと、すうっと喧騒の中へ消えていった。
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