美しい世界の片隅で
雨の中では、ビルの天辺は見えなかった。
(知らなかった――雨の日とは、こんなにも)
曇天という文字は灰色だった。しかし雨天という文字は白かった。
ぽつぽつと、した音もなく。ざあざあと、うるさく降り注ぐ日もあるのに。今日は、
(静かだな)
街の中でそう思った。人と人と人が行き交う場所で。
色んな色の傘が動いて、並んで、離れて、それが見ていてとても綺麗だった。
骨の先――から滴る雫。その音に耳を傾けながら、人々は何を考えているのか。
あの日は一目瞭然だった。雨ではなく、雪だったけれど。
怖い、という感情はなかった。悲しい、という感情もなかった。
グラグラと揺れて、ガラガラと崩れた、それだけの話で。
何が日常なのか。普通なのか。その境界が破れてしまったというだけの話で。
かつてない混乱を聞いていた、見ていた、日常はぽつんと取り残された。
突然、孤島に置き去りにされたかのように。そこだけ時空が切り離されたかのように。
あの空のように、変わらないものを忘れてしまったかのように。
ぽっかりと、大きな穴が開いていた。街はただ一色に染まっていた。
それが、ここ数ヶ月で劇的に変わった。いや回復した、少なくとも表面上は。
少し中心部から離れて、海に近いところに行けば。地盤が柔らかいところに行けば。
そして所々に閉鎖されている店や、壁に走った亀裂を見るときは。
傷跡、とは過ぎてから思い出すこと。
傷口、とは触れられて開くもの。
電車に乗れない人がいるという。胃に穴が開いた人がいるという。
知らぬ間に蓄積した疲労と、ストレスと、ショック、だろうか。
たった数分の出来事が、何年にも渡る爪跡を残す。
幸いにもあまり被害のなかったところと。不幸にも大きな被害のあったところと。
一つの街の中にも落差がある、道路が一本違うだけで電気や水道の回復の早さも違っていた。
家がない人。車がない人。人がいない人。
たくさんの傘の中に、たくさんの人の内に、それは隠れている。
街という大きな波の中で、たくさんの色を見ていた。たくさんの音を聞いていた。
探していた、たった一つの影。
――いや、それを語るのは止めておこう。
標識が示すものと。白線が引いているものと。踏切が止めているものと。
その中から見つけ出すのは難しい、大切なもの。
忘れないように、と祈る。
そして世界は変わらない。変わらずに、美しい。変わったけれど、美しい。
(雨の日とは、こんなにもカラフルだ)
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