陽の当たる場所はココにある

誰かや何かを「待ってる」うちは、
「自分」や「未来」を信じていることにはならないよ。

手を伸ばせ。
掴みに行け。
陽の当たる場所へ飛び出せ。

せっかく夜が明けても、
自分が閉じこもっていたら、
太陽の光には出会えない。



そりゃあ、ね、夜は必ずいつか明ける。

でも、朝になったって、
陽の光が射さない日陰は、あるんだ。

あなたが今いるその場所は、ちゃんと「日なた」になる場所か?
それを見極めなくては。




何も考えずに歩くことは、「前進」とは言わない。

何も感じずに生きることは、「成長」とは言わない。

欲しいものがあるなら、
それが手に入る場所を見定めて、
その方向へ歩み出すことが「前進」だ。

望む未来があるなら、
周りの景色の動きと自分の心の動きを、
深くまで感じ取って、
心が指す方角へ向かうことが「成長」だ。

「真面目に生きていればいつか誰かが助けてくれる」
「とにかくがむしゃらにやっていれば芽は出るはず」
とか、そんなわけないじゃんか。





太陽の光は、はるか彼方から平等に降り注ぐかわりに、
わざわざ「日陰の部分にまで入り込もう」とはしてくれない。

「陽に当たりたいなら、外に出ておいで」

いつだって、太陽からのメッセージはそれだけだ。





抽象的な話からもう少し具体的な例に直せば・・・・

「私は真面目に頑張っているのに、
いつまでも上司が認めてくれず出世できない」

という言葉。

「真面目に頑張る」ということと、
「出世するために頑張る」ということは、全然違う。

出世したいなら、「出世するために頑張る」必要があるでしょ。

「真面目に頑張っていればいつか・・・・」なんて、
思考停止もいいところ。

あなたが今いるその会社で、
出世するためには何が必要なのか、
ちゃんとあなたは知っているのか?
それを調べ、そのために具体的な努力を重ねているのか?

ただ、毎日渡される仕事を黙々と我慢してこなすことは、
「出世するために頑張る」とは違うんだ。




また他にも例えば、

「愛していればいつか分かり合える」

という幻想にしても、そう。

「分かり合う」ってどういうことだ?
あなたはそのためにどんな行動を起こしたんだ?

ただダラダラと一方的な気持ちを、
自分の中にこもらせて、腐らせていっただけじゃないのか?

相手がどんなことを考え、
何に歓び、
何に哀しみ、
何に怒る人間なのか、
それを知っているのか?

知るための、どんな行動を取ったのか?

その相手とどれくらい向き合った?
どれくらい自分の本音を相手に伝えた?

相手が分かってくれないと言う前に、
自分は伝える技術を磨いたのか?
相手がどういう言い方なら分かってくれるか、
何回も様々な方法で試したのか?
すべてのコミュニケーション本を読んで、
考えつく行動はすべて取り切ったと言えるのか?

「自分のことは変えられるけど他人のことは変えられない」
という言葉に都合よく逃げて、
「相手の心に届き相手を変える言葉」
を探す努力を怠ったりしていないと、心から言えるのか?






見当違いの方向に努力をしているのは、自己責任だ。

地図とコンパスを用意しなかったり、
途中で逐一チェックすることをしなかった自分のせいだ。

「こっちに進めば目的地につくはず」って妄信して、
道に迷ってしまうのは、自業自得だ。




神様にいくら頼んだって、ヒキコモリにお金は降ってこない。

現実世界でお金を手にするには、
働くでもビジネスをするでも、
ギャンブルをするでも、
他人にねだるでも何でもいいから、
「お金のために行動する」が無ければ。


占いの結果が最高だって、相手を見ない人間に、
良いパートナーシップは気付けない。

星座がうんたらとか数秘がなんだとか前世がどうとか、そんなの、
「目の前の相手が今何を感じて何を考えてるか」
に比べてしまえば、二の次三の次。

そういう、自分にコントロールできない、
大きな力に縋って甘えるような人間に、
他人の心は重くて受け止められない。

受け止めるチカラの無い人間のところに、
大きな愛が降ってくるわけもない。





日本には、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある。

故事ことわざ辞典によれば、
「自分の全力をかけて努力をしたら、その後は静かに天命に任せるということで、事の成否は人知を越えたところにあるのだから、どんな結果になろうとも悔いはないという心境のたとえ。」
だそうだ。
http://kotowaza-allguide.com/si/jinjitsukushitetenmei.html


そのことわざが示すように、
最終的に事の成否は、人間には計り知れないところにはあるよ。

まったく予想だにしないところから、好運も不運も降ってくるもの。

自分が動かなくてももうそこがすでに陽の当たる場所かもしれないし、
動いたところで闇の中から抜けられない可能性だって、ある。



でも、僕ら人間は、「自分で決めて動く」ということが、
何よりも何よりも大切なんだ。

「自分で決めて進む」ということが、ただひとつ、
自分が自分を幸せにする手段。

自分で決めて進んだなら、
「成功」はできなくても、
「不幸」にはならない。

誰かから与えられただけのものなら、
「失敗」はしてなくても、
「幸せ」にもなれていないかもしれない。




「待つ」という行為は、
自分の人生を、
誰かや何かに委ねてしまう行為だ。

待ってたってそこが陽の当たる場所である保障はないし、
自分で決めていない分、幸せにだってなれない。

手を伸ばし、掴みに行くという行為、
陽の当たる場所に飛び出そうとする意志は、
それを選んだ時点で、心を満たすことができる。

考えながら進み、感じながら生きた結果、
そこがまだ日陰であっても、いいんだ。

考えてる限り、感じている限り、
まだそこからいくらでも道を探せる。

「ここは日陰だ」ってことに気付けるんだから。




「自分」を信じるなら、しっかり考えて前に進め。

「未来」を信じるなら、ちゃんと感じて生きろ。

「日なた」はどっちだって、探し続けるんだ。

見つかるか見つからないかじゃない。

その探そうとする意志が、もう、自らを照らす太陽なんだ。




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